22/06/2022

2022.6.22 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
箴言7章2節
私の戒めを守って生きよ。
私の教えを目の瞳のように守れ。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヤコブの手紙3章13節
あなたがたの中で、知恵があり分別があるのは誰ですか。その人は、知恵に適う柔和な行いを、良い生き方によって示しなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今日の旧約聖書の言葉に「目の瞳のように」という表現が登場します。私は、目そのもののことを瞳だと思っていましたので、なんか面白い表現だなと思わされたわけです。
 
しかし、瞳という文字を調べますと、瞳というのは、いわゆる眼球の構造のなかでも、光を取り入れる部分のことを特定して瞳と言うのだそうです(間違った理解かもしれません。詳しい方で間違いがありましたら、是非教えてください)。
 
つまり、私たちは目を持っていても、光を認知しなければ物を見ることはできないというわけで、これはとても興味深い言葉だなと思いました。神が放つ光を受け取る瞳を守りなさい。箴言の言葉は、そのように私たち一人ひとりに伝えているのだと理解しました。
 
それが具体的には、神が人間に与えられた教え・戒めであると、今日の箴言の言葉にあることに気づかされます。この場合、神による戒めとか教えとは一体何だろうか。そのように考えます。
 
一般的に教えとか戒めという言葉を聞くと、私たちの生き方を指し示すものというイメージがあり、戒めという言葉を聞けば、何やら厳しい戒律のようなものという印象を抱かせるものであるかもしれません。それを守りなさいと言うのですから、守れないと感じた途端に、ものすごいハードルの高さを感じるかもしれません。一般的に宗教というものに「敷居の高さ」を感じるのは、そういうところから来ているのかもしれません。
 
しかし、今日の箴言の言葉を通して思わされることがあります。それは何かというと、たとえ眼球を持っていたとしても、光をキャッチする瞳がなければ、何も見えないということです。つまり、見た目にはどんなに神の教えや掟というものを守っているように見えたとしても、神が放たれる光、つまり神が私たちに与えられるご自分の御心、本質、生きる喜びというものを私たちが受け取ることがなければ、どんなに立派な行いをしていたとしても、それはとても空しいものとなってしまうのではないか。そう黙想しました。
 
今日の新約聖書の言葉であるヤコブの手紙の一節は、知恵に適う柔和な行いをもって、良い生き方を示しなさいとあります。ここで言う知恵とは、紛れもなく神の知恵のことを指しているわけですが、私たちの側に求められていることは、その神の知恵を受け入れるための瞳を、私たちは瞳としての機能が果たされるべく、大切に守り続けることなのだと理解できます。
 
行いを果たす前に、自分自身のうちにあるものを確かめる営み。この営みのなかで、神の放たれる光というものを受けられるように、自分自身を神の言葉と聖霊の助けで整えたい。そんな思いに導かれた、今日の黙想でした。
 
昨日、このような聖書の言葉を知りました。
 
守るべきものすべてにも増して
あなたの心を保て。
命はそこから来る。(箴言4章23節)
 
今日の一日が、私の心が主なる神様とともにありますように。お祈りいたします。

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