09/06/2022

2022.6.9 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
創世記4章7節
もしあなたが正しいことをしているのなら、顔を上げられるはずではないか。正しいことをしていないのなら、罪が戸口で待ち伏せている。罪はあなたを求めるが、あなたはそれを治めなければならない。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ガラテヤの信徒への手紙5章1節より
この自由を得させるために、キリストは私たちを解放してくださいました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今日の旧約聖書に触れてまず思ったこと。それは「顔も見たくない」ときの状況は、まさにこれなのだと。カインは弟アベルどころか神の貌まで見たくなくなるぐらいまでに、憎しみの念にあふれていた。そのように思わされるのです。
 
今日の旧約聖書の言葉である創世記4章にある一節は、最初の人間のであるアダムとその妻エバから生まれた、ふたりの兄弟のあいだに起きた悲惨な殺人事件の序章となる話です。ふたりは神の御前にそれぞれささげ物をささげた。神はアベルのささげた肥えた子羊を目に留められるが、カインのささげた土の実りには目を留められなかった。その結果、カインは心のうちに怒りを覚えます。この怒りの感情に対する神の言葉が、今日の聖書の言葉というわけです。
 
この話をめぐっては、神がどうしてカインのささげた土の実りに目を留められることがなかったのか、明確には記されていません。この解釈については諸説ありますし、なんか釈然としない話の展開に、私たちは惑うこともあるかもしれません。ただ、この物語はカインの心のなかに怒りの感情が起きて、この怒りがうらみとなり、ついには弟を殺してしまうという惨事を招いたということです。
 
神は言われました。あなたが正しいことをしているならば、堂々と顔を上げて目をそむける必要などないではないかと。この言葉にズキンと心響かせられます。目を背け、相手の顔を見ることができないような感情の奥底にあるものがなんであるかに、私は関心を向けなければいけないのだと思わされます。
 
目を背け、顔を背け、心を背け、思いを背け、体を背ける行為。この方向を同調させない行為こそ「罪」という言葉のもともとの意味です。具体的には、私たち人間が神から与えられた自由意思を傍若無人に振る舞い用いることで、神を必要としない私たちの方向性が結果として、罪という背きの心を生み、思いを養い、行動へと発展するというのです。
 
カインが「顔も見たくない」という行動に走らせたのは、彼の心のうちにある背きの思いを具体的に表現したものだったのでしょう。だから神が言われた「正しいことをしているならば・・・」という言葉には、たとえそのことが間違っていたとしても、神の顔を見つめ神ととものに歩もうとするために顔を見上げるならば、その間違いはさして大したことではない。神とともに歩むことで、カインもまた自分自身の生き方や思いというものが軌道修正されて、最終的には祝福された人生が与えられたに違いないのです。
 
のちにカインは神に告白します。私にはその罪は負いきれないと。結局カインは神なしに生きることの限界を痛感させられます。神はそんなカインを生かし続けるという憐れみを示されました。その後のカインの人生について聖書は具体的に記してはいませんが、カインとその家族、子孫を神はさらに守り続けたことが聖書に記されている物語です。
 
私は思います。人生のなかで間違いや過ちなど山ほどあるなかで、大切なのはそんなときでも神の顔を見つめ続けることなのだと。怒りや恐れの感情に打ち負かされて、自分自身の殻に閉じこもってしまうことのないように、今日も神に心を開かされて生きたいと思わされました。今日の新約聖書の言葉のとおり、私たちの心の扉を開けてくださり、私たちを解放し、自由を与えてくださったイエス・キリストが、今日も私たちとともにいてくださるのだからと。
 
今日の一日もまた、心の窓を開けて清々しい空気と、陽の光、鳥のさえずりを耳にするように、神の与えてくださるすべてを喜ぶ者とさせてください。アーメン。
 
今朝のシメオン黙想の家・部屋の窓から

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