06/06/2022

2022.6.6 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
歴代誌上28章9節より
主はすべての心を探り、すべての思いの向かうところを見抜かれる。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一4章13節
神は私たちにご自分の霊を分け与えてくださいました。これによって、私たちが神の内にとどまり、神が私たちの内にとどまってくださることが分かります。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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昨日は聖霊降臨祭(ペンテコステ)の日曜日を、それぞれの教会で過ごされたと思います。ペンテコステの礼拝を通して、あらためて聖霊なる神の働きについて知ることができたのではないでしょうか。
 
ペンテコステの余韻は、私たちの日々の生活に続きます。ちなみに、ドイツでは「ペンテコステ月曜日(Pfingstmontag)」と呼び、特別な礼拝のときを持ちます。クリスマスもイースターもそうなのですが、一日祝ったらそれで終わりという話ではありません。祝いの余韻というものを是非味わうものでありたいと心から願います。聖霊なる神は、ペンテコステから始まる日々を欠けることなく守り、私たちの心を守り続けてくださるからです。
 
そういう意味で言えば、今日の聖書の言葉はまさに私たちの心に住まう聖霊なる神が、私たちの心をつねに整え、私たちが向かおうとしているところをすべてご存知なうえで、私たちに生きるにふさわしい道を指し示してくださることを、私たちに想い起させてくださるものなのだと、私は受け止めることができました。
 
私たちは自分自身の生き方、または自分がかかわる教会などの信仰共同体や社会のなかで、多くの決断が迫られています。そのときに、神の御心がどこにあるのだろうかと御言葉を開き、祈り、神がその御心を示してくださるのを尋ね求め、また待つということがしばしば起きます。
 
そんなときに、私たちは「神の御心がどこにあるかわからない」と思うことがあるかも知れませんし、「これぞ神の御心だ!」と確信することもあれば、聖霊が導いてくださったと信じて、決断の道を進むこともあるかもしれません。
 
しかし、私がいつも思わされるのは「神の御心と信じて進もうとしていることが、すでに進んでいることは、実は神の御心でないのかもしれない」という思いを、心のどこかで抱くのは本当に大切なんだ、ということです。だからと言って、神の御心がわからないと右往左往していたり、神の御心を待ち続けようと何もしないのでは進歩もへったくりもない。たとえ間違っていたとしても、己が神の御心と信じた道をただ歩むのしかないのだと思います。
 
そんなときに、聖霊なる神は私に「軌道修正」を与え、修正することへの知恵と力を授けてくださる。それこそ、聖霊なる神の重要なお働きであると受け止めたいのです。融通を利かせながら軌道修正するところには、神の力が十分に働き、私たちに自由を与えてくださる。聖霊なる神様の働かれるスペースが、私たちの心のなかに生まれ、そのスペースは私たちの生きる社会へ拡散されていく。ここに、神を信じる者の喜びがあるのではないでしょうか。
 
何かを貫き通すこと。これはとても立派なことだと思います。しかし、そのことを何が何でも維持しなければならないと頑張ってしまうがゆえに、本当に守らなければならないこと、聖霊なる神の働きまで阻害してしまうような自我を頑固なまでに貫き通そうとしてはいないだろうか。そんなことを黙想させられます。
 
神の御前にただその御心に聴き、自分自身を柔軟なさまへ整えてもらうべく、聖霊なる神に助けていただくこと。これが、聖霊降臨の喜びに生きることなのだと、ペンテコステの余韻あふれる今日の一日を過ごしてまいりたいと願わされました。
 
どうぞ皆さんにとっても、聖霊なる神が与える自由を喜ぶことのできる一日でありますように。お祈りいたします。

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