28/06/2022

2022.6.28 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編16編8節より
主が右におられ、私は揺らぐことがない。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
使徒言行録26章22節
パウロの言葉:
私は今日まで神の助けをいただいて、しっかりと立ち、小さな者にも大きな者にも証しをしてきました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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揺らぐことのない信仰。私たちはこの言葉はどのように考え、またとらえることができるのでしょうか。今日はそのことを黙想したいと思いました。
 
今日の旧約聖書の言葉にもありますが、主なる神が私とともにおられるから、私は揺らぐことはないのだと、詩人は歌いました。この言葉を聞くだけで、なんと立派な信仰なのだろうと思ってしまうのです。
 
それでさてはて、私の信仰というものはそんなに揺らぐことがないのだろうかと、ついつい思ってしまったりするのです。正直に申し上げれば「揺らぎっぱなしの信仰」というものを、私なんかは抱いていると思わされることが多々あります。これが偽らざる正直な私の現実なのだと。
 
だとすれば、「揺らぐことのない信仰」とは何なのだろうか。ものすごく高いハードルを越えなければいけないような課題なのだろうか。そこに、私の「信仰観」というものが浮き彫りにされ、明らかにされていくような気がするのです。
 
揺らぐことがないのは私ではなく神。私はそのように思うのです。たとえ私が日々の生活に翻弄されて揺らぎっぱなしの状況であったとしても、神はどっしりと構えていてくださる。そして、私の揺らぎというものをしっかりと見守り、支えていてくださる。ゆえに、私は揺らいでも、ゆるぎない神の守りのおかげで、私は生きていくことができるのだと。
 
今日の聖書の言葉ではありませんが、船に乗り込んだイエスの弟子たちが、嵐によって湖上の船が沈みそうなほどに揺れ動いたときに、弟子たちの心も揺れ動きながらも、イエスは船端で動じず眠っていたというシーンを思い出します。弟子たちはイエスに不安を叫びます。しかし、イエスは嵐を鎮め弟子たちを安心へと導いた。まさに「信仰」が物語る一場面です。
 
信仰とは、神が人間を祝福し守ってくださることの実体・実質そのものです。私が神に向かう態度を明らかにすることそのものが信仰の本質ではなく、揺れ動く私たちを助けてくださるイエスという実体がおられるというのが「信仰の本質」です。
 
だからこそ、私たちがどんなに揺らごうとも、不安定であったとしても「信仰」は明らかに存在するのです。その信仰を、私たちは神の助けとしていただき、それを握りしめるからこそ、私たちは「信仰によって生きる」ということが可能にさせられるのだと言えるのです。
 
使徒パウロも、多くの困難と迫害、大波小波に翻弄されながら、イエスという信仰の実体を宣教し続けました。パウロは言います。神のおかげで私はそのような困難ななかでも立たせてもらえたし、信仰を伝え、分かち合うことができたのだと。それは、パウロの能力でも精神力でも根性でも力のゆえでもありませんでした。神がこの弱い私を支えてくれた。この一点に尽きるのだと。
 
今日も、頼りない私をすべてご存知である神が、私をしっかりと抱えてくださり守ってくださる。そのことに心を寄せつつ、一日を過ごしてまいりたいと思いました。皆さんの一日にも、そのような主なる神が豊かにともなっていることを、希望の源とすることができますように。お祈りいたします。

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