25/06/2022

2022.6.25 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
申命記8章5節
人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練することを心に留めなさい。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書13章15節
イエスの言葉:
私があなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのだ。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
私事ですが、4月から7月までの期間、ある教会が主催する「主の弟子訓練」クラスにオンラインで参加しています。これまでも、この「主の弟子訓練」に大きな関心と興味を抱き、自分自身もその実践者となるべく関わり、取り組んでまいりましたが、あらためて初心に帰って、今回のクラスに参加することにしました。
 
ちょうど昨日そのクラスがあったのですが、とても和やかな雰囲気のなかで、参加者同士が互いの思いや心のうちにあるものを分かち合い、祈り合い、御言葉に聴くとても充実した機会をいただいています。昨日もそのような気持ちを十分にいただくことのできたひと時でした。
 
しかし、弟子訓練と聞くと、とてもダーティーなイメージが教会の世界につきまとっているのを、私自身よく知っています。私も一番最初に弟子訓練の看板を立てているある教会とその牧師を見たときに、とても嫌悪感を催すものであったことを思い出します。
 
なぜならば、その教会の牧師は主の弟子というよりは、自分という人間の弟子、つまり自分が意のままに操ることのできる信徒に仕上げるために、弟子訓練という言葉を使っていたからでした。一見すると統制の取れているような教会が仕上がったわけですが、その実は、牧師の欲望を強制的に信徒に押し付けているにすぎませんでした。結果、その牧師は信徒に対する強制性交の罪で逮捕されました。まさに「カルト化」の温床として、弟子訓練という名前が用いられたわけです。ダーティーな印象がつきまとうのも十分に納得できます。
 
さて、今日の旧約聖書の言葉にも「訓練」という言葉が用いられています。訓練とはトレーニングという言葉に置き換えることができます。人間の健康維持に日ごろの運動・トレーニングが必要であるように、私たちの魂も日常の整えが必要であることを訓練という言葉が物語っていると私は思っています。
 
そのときに、何によって私たちの魂が訓練されることが必要なのか、今日の申命記の言葉は的確に述べられています。「親が子を訓練するように、主なる神の訓練を心に留めよ」と。親が子どもを育てるときに、真心のこもった愛情で養い育てているように、神は私たち人間の魂を、ご自分の愛がこもった御心で育ててくださろうしておられるのだ。この思いを大切にしなさいと述べているのです。
 
訓練という言葉は、軍事訓練のようなものではありません。神が聖書を通して語っておられるご自身の言葉の本質が、私たち一人ひとりの魂を育ててくださり、私たちはそれによって人生が実に豊かにさせられるということを、訓練という言葉は指し示しているのだと実感させられます。
 
神の御心の完全な実践者となられたのが、救い主イエスでした。今日の新約聖書の言葉にもあるように、イエスは弟子たちに言われました。私はあなたがたにその模範を示したのだと。この言葉に私たちは心を寄せたいのです。イエスがどのように生きたのか、その本質に生きることこそ、主イエスの弟子となることであり、そのための訓練なのだと。そして、その訓練には、イエスの愛があふれているものなのだと。少なくとも、昨日のクラスはそのような愛に参加者が互いに共有される時と機会だったと、昨日のことをを振り返りながら思わされていました。
 
神の言葉を取り扱い、それを取り次ぐ立場にある者として、神が与えてくださる訓練の意味というものを決して取り違えることなく、明日の礼拝に向かって、自分自身が主の弟子とされるべく魂を主なる神に整えていただきたいと願い、祈りました。今日の一日が、神を知るすべての方々にとって、そのような祝福に満ちあふれた整いの時でありますように。お祈りいたします。

0 件のコメント:

コメントを投稿