20/06/2022

2022.6.20 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
出エジプト記20章3節
あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書6章68~69節
シモン・ペトロが答えた。「主よ、私たちは誰のところへ行きましょう。永遠の命の言葉を持っておられるのは、あなたです。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今日の聖書の言葉とともに、『日々の聖句』の原本である『Die Losungen(ローズンゲン)』に掲載されている「第3のテキスト(聖書の言葉にテーマを合わせた賛美の歌詞や祈りの言葉、名言格言)」は、このような言葉が記されていました。
 
泉で水を汲める者が水瓶から汲んではならない
レオナルド・ダ・ヴィンチ
 
ダ・ヴィンチがこのような言葉を残したことを初めて知ったのですが、実に深い示唆というものを、私たちに与えていると感じました。私はこのダ・ヴィンチの言葉を通して今日の聖書の言葉を黙想したときに、あるひとつの思いが与えられました。それは、
 
原点回帰の大切さ、本質を求めることの重要さ
 
というものです。源泉で新鮮な水を汲むことができるのであれば、そこから水を得たほうが新鮮な水を手に入れることができるというものです。それは、水瓶にどれだけ水がためられていたとしても、その水量と新鮮さたるや源泉には逆立ちしてもかないません。
 
もし、泉に象徴される原点・本質に帰ることができるのであれば、それに帰らずして、どうして神を知ることができよう。神についての知識が水瓶にたたえられた水のように、ふんだんに語られ守られたとしても、神が私たちに期待しておられることの本質からずれ、異なっているのであれば、どうして神を語ることなどできるのだろうか。そのように黙想させられました。
 
今日の聖書の言葉は私たちに語ります。私以外に神々があってはならないと。モーセをはじめとする神の民に与えられた十戒における最初のコマンドです。この神々というのを、異教の神々というふうに直結してしまい、それだけに集中してしまうのであれば、原点回帰にはならないと私は思うのです。
 
そうではなくて、神々とは本質を求めようとしない人間そのものの姿なのではないか。そう思ったのです。聖書を通して語られる神の真の姿を理解しようとせず、自分好みの、非常に都合の良い神を私自身が規定し、そこから生き方を得ようとする姿は、せっかく源泉から水をふんだんに飲める機会を逸し、目の前にある水瓶だけで満足しようとする人間の姿に相通じるのではないか。そう感じたのです。
 
今日の新約聖書の言葉は、永遠の命の言葉を持っておられるイエスにこそ、帰る道があるのだと告白した、弟子ペトロの信仰告白です。イエスの言葉にこそ神の本質があるのだというペトロの告白は、実に考えさせられます。私は本当にイエスの言葉の本質というものに、自分自身を置いて生きようとしているのだろうかと。
 
これは、聖書の言葉を自分の都合を優先した結果、神の本質から逸脱した受け取り方をしていないだろうか。また、言葉の文字面だけに集中してしまうあまり、言葉の奥深くにある本質を無視してはいないだろうか。そんなことを思わされたのです。泉ではなく水瓶に自分の根拠を求めようとする姿ではなく、あくまで泉から活ける水をいただく者でありたい。それが私の黙想です。
 
今日も、神が与える本質に導かれたいがゆえに、神の言葉に向き合うことができますようにと祈りました。皆さんの一日も、活けるいのちの水を得る幸いなときでありますように。お祈りいたします。

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