08/06/2022

2022.6.8 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
サムエル記上2章7節
主は貧しくし、また富ませ
低くし、また高めます。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヤコブの手紙2章1節
私のきょうだいたち、私たちの主、栄光のイエス・キリストへの信仰があるなら、分け隔てをしてはなりません。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今日の旧約聖書の言葉は、イスラエルの裁き人・士師の時代を経て、イスラエル国民の指導者となったサムエルの母・ハンナによる祈りの言葉の一節です。ハンナは子が与えられたことを神に感謝して、感謝の祈りをささげました。
 
ハンナは神がもたらされる救いに感謝しつつ、その神に抗おうとする人間の傲慢さが、主によって低められ、神の御心こそが豊かにイスラエルの地になされるように祈ります。その祈りが今日の聖書の言葉です。この祈りを通して、神の栄光と人間の傲慢さというものが、実に対比的に語られているのがとても印象的であると言えます。
 
人間の傲慢さ。そのことに想いを寄せます。普段、私は傲慢に生きるなどということは考えていなかったとしても、結果としてそれは傲慢甚だしい言動であったことを思い起こすことがしばしばあります。もちろん、人に対してそういう言動が働いて思うのですが、人の尊厳を大切にしないということは、それすなわちその人を愛される神に対する傲慢なのだと思わされます。
 
神が愛しておられるその人を愛する。それは時に大変難しいことなのだと思わされます。特に、自分の尊厳や人権というものを踏みにじり、それをないがしろにしようとする傍若無人な態度を明らかにする相手に対しては、とうてい愛することなどできない。これは当然のことなのだと思うのです。
 
そういう時に実感するのは、自分自身の限界です。この限界を自覚することこそ、おのれの心のなかにあるものに素直に向き合える一瞬なのかもしれません。そして、この一瞬があってこそ、すべてを豊かにしてくださる神の知恵と力、そのタイミングに委ねることができるのではないだろうか。これは人間の傲慢さとは真逆の行動なのだと私は信じたいのです。
 
神は私たちにチャレンジすることを期待しておられますが、同時に無理やり押し込めたり、自分の感情に蓋をして善人ぶらなくても良い。神の善に生きるとは、神に自分の素直な気持ちをぶつけながら、神が与えてくださる何かに期待しようとする謙遜さなのかもしれません。
 
そのためにも、イエス・キリストへの信仰があるならと、今日の新約聖書の言葉は語ります。この場合の信仰とは、自分が神に向かう一方向の行動のように思えますが、その大前提があります。信仰とは、救いそのものの実体を示す言葉です。その実体とは、救い主イエスであり、このイエスが心の中にしみわたるときに、初めて神に向かうことが可能になるということであると言えます。
 
イエスは、私たち一人ひとりの心にご自分の御心を今日も与えてくださる。その御心で、私たちは傷ついた心が癒され、許せない思いという傷口に塩をなすりつけられることなく、じっくりとゆっくりと、回復のときが与えられることを期待しつつ、神の豊かさに生きる者となりたい。そんなことを願わされました。
 
今日も、神の豊かさがこの地に、そして私たちに行きわたりますように。そのことを心からお祈りいたします。

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