17/06/2022

2022.6.17 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編104編1~2節より
わが神、主よ、あなたは大いなる方。
威厳と輝きで身を包む。
光を衣のようにまとわれる。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ペトロの手紙一2章9節より
あなたがたを闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある顕現を、あなたがたが広く伝えるためです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
今日の新約聖書の言葉は、私たちを闇から光の世界に招いてくださった救い主イエスを宣べ伝える「ために」どうさせられているのかということがポイントになります。今日選ばれた聖書の言葉は、第一ペトロ2章9節の後半だけですので、前半部分にも目を留めてみたいと思います。こうあります。
 
しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。
 
前半部分を見れば、私たちは神によって選ばれ、祭司、つまり神を礼拝する民とされ、そして何よりも神のものとさせられた者たちであることが記されています。このことを踏まえて後半部分を読めば、「神がおられる」ということを私たちが宣べ伝えることができるのは、神が私たちをご自分の民としてくださったからなのだと受け取ることができるのだと思います。
 
この考え方は、とても重要なことを私たちに伝え、教えるものなのだと私は受け止めました。神の救いを伝えるという行動は、どうしても私「自身」の言動にかかっているような思いにさせられることはないでしょうか。これだけ一生懸命伝道したとか、積極的にあの人に救いを伝え続けたとか、そんな感じにです。
 
もちろん、愛する者の救いのために神を伝え続けることは何も悪いどころか、とても素敵なことだと私は思います。ただ、その前提があるということなのです。そもそも宣教とか伝道というのは、私というからだを用いて神がなしてくださる業なのだという大前提です。そのために、私たちをご自分の民としてくださり、礼拝する民へと整えてくださることで、ご自身の愛に代表されるご自分の価値観を御心として、私たち一人一人に光のごとく注ぎ、宣教する者としてくださったというのです。
 
そういう意味で言えば、私たちは神が注がれる光をキャッチしてその光を放射することのできる、言わば反射板のような働きを担われているのだと思います。反射板は受けた光を渡すことができるように、メンテナンスをし続けることで反射板としての役割を果たせるようにするのが、反射板としての務めなのでしょう。
 
そのためにも、神の言葉である聖書が語る本質と、それを本質と気づくように促してくださる聖霊の働きが、反射板を磨く研磨剤のような役割を果たしてくださるのでしょう。聖書の言葉に聴き、祈り黙想しつつ、今日という生活へ押し出されることの幸いを今日も感じながら、歩んでまいりたいと思います。
 
どうぞ、皆さんの一日もそのような幸いなる時でありますように。お祈りいたします。

0 件のコメント:

コメントを投稿