23/04/2022

2022.4.23 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書58章11節より
あなたは潤された園のように
水の涸れない水源のようになる。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書4章11節
私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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どんなに人生の苦労を重ねても、報われているような気がしてこない。それはまるで、いくら水を飲んでも喉の渇きを癒すことができない。
 
今日の新約聖書・ヨハネによる福音書4章にある、サマリア人の女性とイエスとの出会いは、まさに女性の生きざまが明らかにされるときとなりました。
 
この女性は、今まで五人の夫がいたこと、そして今共にいる男性は夫ではないことをイエスによって言い当てられます。イエスがそのことを言い当てたことは脇に置いて、この女性は何らかの理由で代わる代わる男性と一緒に暮らさなければならない事情があったのでしょう。夫に先立たれたか、離縁を申し渡されたかはわかりません。しかし、生活のパートナーからは、永続的な人生の潤いというものを、得ることができなかった。そういう女性でした。
 
その女性に、イエスは「永遠の命に至る生ける水」についてお語りになられました。絶対にサマリア人である自分自身をさげすんで見ているであろう、ユダヤ人のイエスからです。この人の言葉からは、自分が決して経験できなかった人生の潤いを感じたのかもしれません。サマリア人の女性は、その水をイエスに所望しました。
 
ここで注目したいと思ったのは、イエスはこの命の水を、関係が断絶状態にあるとされていたサマリア人の女性に勧め、そして与えようとしているということです。ここに、イエスの思うというものをうかがうことができるわけです。断絶された関係にこそ、水の潤いがあふれるように働かれるイエスの姿勢をです。
 
このような潤いを、私はどのように受け止めれば良いのだろうか。これが私にとっての今日の黙想です。
 
我田引水という言葉があります。文字通り、自分の田んぼだけに水を引いて田畑を潤そうとする態度、つまり自分本位で相手の利益をわきまえない姿勢のことを指すわけですが、自分だけが潤ったところで、それが本当に自分にとっての幸福なのだろうかと、つくづく考えさせられます。
 
関係が断絶するところには、水がお互いにいきわたることなど不可能なのであって、そこには我先にと奪い合うような世界がある。イエスがサマリアの女性に話しかけ、命の水について語られ、それを与えようとされたこの出来事に、私は本当に聴従しているだろうかと、深く黙想したいと思わされました。そして、一時的なものではなく、私たちを連続的に潤し続ける水の豊かさをいただき続けたいと願わされました。
 
どうか私たちの人間関係に、国と国との争いによって生じる断絶に、命の水がほとばしり、あふれ満たされますように。そのためにも、なによりも私がまず、そのような水を流れさせ、あふれさせてくださるイエスの言葉に、今日も聞き従うことができますように。皆さんの一日もまた豊かなものでありますように。お祈りいたします。

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