25/04/2022

2022.4.25 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
歴代誌上16章31節
天は喜べ。地は喜び躍れ。
国々で告げ知らせよ。主が王であると。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書28章18~20節より
イエスは言われる:
私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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私は天地における一切の権能を授かっていると、天に挙げられる前のイエスは、弟子たちへ語られました。一切の権能。それは父なる神がイエスに与えられた権能であって、イエスが地上にいようとも天に挙げられようとも、ご自身がすべてを神とともにご支配されることを意味しました。
 
そのイエスが、弟子たちにご命令をされました。いわゆる「宣教大命令」と言われる、マタイ福音書の最後の部分が今日選ばれた新約聖書の言葉です。
 
①来るのを待つのではなく、こちらから出向くという積極的かつ外向きな業。
②神の祝福を洗礼というかたちで授ける業。
③イエスの弟子として生きていくために、教え育てる業。
 
これらはすべて、救い主であるイエスの権能によっておこなわれます。イエスによって宣教の命令を受けた弟子たちひとりひとりに対して託された業ですが、その主体は私たちではありません。私たちが委ねられた業を果たすなかで、イエス・キリストが私たちをご支配くださっていることが明らかにされることこそ、主体そのものであるというのです。
 
ですから、宣教とか伝統というものを、何か物事の成果を上げるように、数的な業績にこだわる必要はまったくないのです。数というものは、私たちがイエスの弟子として、イエスが望まれるようにそのことを誠実に営めば、神が祝福として与えてくださる結果こそ、数というものになって自然に表れるものなのだと感じます。
 
その目的を間違えてしまうと、神の祝福とか守りとか助けというものを第一にするのではなく、私の業績を上げることが第一の目的となってしまい、そのために神の助けを利用するといった発想になりかねません。主客が知らぬ間に逆転してしまいます。イエスが私たちに命令された宣教命令とは、そのような種類のものとはまったく違うと思うのです。
 
私自身、新しい教会へ赴任して、その場で宣教するとはどういうことなのだろうかということを、改めて考えさせられています。祝福される教会、喜びに満ちあふれた教会とは、一体どのような場のことを指すのだろうかと。
 
キリストが天地の一切の権能を神から授かっているという考え方は、天も地もすべて、イエスの価値観でつながれていることであって、さて私は、そのイエスの価値観というものを本当に自分自身の生き方としているかどうか。その価値観を愛して、他者とともに生きるための柱としているだろうか。その価値観が共有されるところには、必ず生きる喜びがあふれてくることを心から信じ、期待してです。
 
イエスが救い主・キリストとなられて2000年もの間、教会というものがこの世に続いてきたという事実は、どの時代にもイエスの価値観を誠実に自分の生き方としてきた弟子たちのバトンリレーの歴史に他なりません。そのバトンを今の時代に渡された者として、今日も誠実にイエスの弟子として歩んでいきたい。そう願わされました。
 
どうぞ皆さんの一日もまた、数よりも業績よりもまず、イエスの価値観に生きる喜びと幸いがあふれるときでありますように。お祈りいたします。

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