21/04/2022

2022.4.21 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
アモス書5章15節より
悪を憎み、善を愛し
町の門で公正を打ち立てよ。
あるいは、万軍の神である主が
憐れんでくださることもあろう。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙5章8~9節より
光の子として歩みなさい。――光の結ぶ実は、あらゆる善と義と真理との内にあるからです。――
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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最近、ある方の言葉を通して、とても考えさせられる機会がありました。その方は言いました。「正義ほど怪しいものはない」と。
 
昨日の黙想でも触れましたが、ロシアがウクライナを侵攻した動機は、まさに「正義」です。ロシアの為政者たちの正義が、今、市民の命を奪うという結果を招いているわけです。
 
正義に人命の犠牲など、本当に必要なのでしょうか。私がこれまで大切にしてきた信仰というのは、人命の犠牲はイエスによる十字架の犠牲、それだけで十分なのだと。それ以外、人が人を殺め、その尊厳を破壊させるような犠牲は、無益の何物でもないというのが、私の信仰です。
 
昨日、私は考えました。では、ある人たちの信仰によって攻められるようなことがあった場合、私は丸腰でただやられるがままに生きるべきなのだろうかと。答えはそうではない、こういうときにこそ、私は「どの正義」で生きることが求められているのだろうかと、考えさせられました。
 
どの正義。それは神が私たちに示されている正しさであり、その正しさに裏打ちされた善に他ならないと、今日の聖書の言葉から改めて感じさせられました。善もまた、正義と同じくらいあやしさを醸し出す言葉であるかもしれません。善の基準など千差万別であり、その人によって善いとされていることなど、本当に善であるかどうかなど、実に怪しいとしか言いようがないのだと思います。
 
神の抱く善とは、私たちが善い生活を営むことができるように、最大限の犠牲を払って自分の大切な持ち物を惜しみなく差し出してしまうような善です。これこそ、いけにえとなられたイエス・キリストという犠牲に他なりません。
 
他者の幸福のために、自分自身を消費し、貢献するような善によって生かされているという信仰が、どのように善をもって生きることができるだろうか。自分の願望を神のご託宣にすり替えて、人が大切にしているものを奪い取り、犠牲を生むような善らしきいかがわしいものを、私自身がつくりあげていないだろうか。そんなことを黙想させられます。
 
今日の新約聖書の言葉は、神によって明らかにされる善にこそ、光が照らされ、すべてが明らかにされることが希望として語られています。その光を喜んで受け入れる私自身でありますようにと願い、その実践者として今日も生きたいと神に願いたいと思います。
 
どうぞ、光によって神が与えてくださる善に生きることができますように。お祈りいたします。

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