12/04/2022

2022.4.12 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ48章20節より
喜びの声をもって告げ、聞かせよ。
地の果てまで響き渡らせよ。
「主はその僕ヤコブを贖われた」と。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コロサイの信徒への手紙1章13節
御父は、私たちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下へと移してくださいました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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救い主イエスの犠牲を想う受難週も3日目を迎えました。イエスは私たちの罪を贖われた。「あがない」という言葉を初めて聞いたのは、中学2年のときでした。アガナイという言葉なぞ使ったこともなかったので、とても不思議な感覚にさせられたのを思い出します。あと、罪のアガナイ。罪、罪から想像できるのは、せいぜい「悪いこと・犯罪のことか?」という程度のものだったことも思い出します。
 
ですから、ツミノアガナイノタメニという言葉を聞いて、罪とはなにか、贖いとはなにか、イエスはどのような思いで十字架にかかられたのか、そしてその上で苦しまれたのかということへのイメージは、この30数年のなかで随分豊かにされてきたと思わされます。もちろん、豊かにされたからと言って、罪の贖いということを100%わかりきっているかと言われれば、まだまだと痛感させれらるのもまた事実なのですが。。。
 
贖い。それは身代金のような代価をもって、囚われている人々を救い出すことです。私たちを縛り、捕え続けている罪から解放されるために、神はイエスという身代金を差し出された。これが贖いの指し示すところです。
 
しかし、改めて思わされることは、私たちを縛り続けている罪に縛られる道へ進んだのは、私たち人間に他ならないということです。誘拐犯のような悪魔が、善悪と知識という美味しそうなものをちらつかせて、人間を罪の道、つまり神との関係を拒む道を選ぶように誘導されたことは事実です。しかし、冷たい言い方をすれば、それは、だまされる方が悪いという、人間自身の自業自得の結果でもあったと言えるでしょう。
 
しかし、そういう人間の自業自得など、神にはまったく関係なかった。もちろん、人間には自業自得の念を「罪の意識」という思いを通して痛感させたでしょう。だからと言って、神は人間を見捨てることはなかった。こどもが誘拐されたときに、親はこどもを救いたいとの一心で身代金を差し出すように、その親心が、贖いの主を差し出された。私たちは、本当の親心というものを見せられているのだと思うのです。
 
この親心ゆえに、私たちは生きる喜びというものを味わうことができるのだと、今日の聖書の言葉は、私たちに訴えているような気がしてなりません。この喜びを胸に抱いて、今日の一日を歩みたいと願います。親心に支えられているという安心感と充足感をもって。
 
どうぞ、すてきな喜びの思いが、皆様とともにありますように。お祈りいたします。

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