28/04/2022

2022.4.28 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書2章4節より
主は多くの民のために判決を下される。
彼らはその剣を鋤に
その槍を鎌に打ち直す。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
使徒言行録10章36節より
神は、イエス・キリストを通して御言葉をイスラエルの子らに送り、平和を告げ知らせてくださいました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今日の旧約聖書には「判決をくだす」という言葉があります。今日はこの言葉を中心に、黙想を深めてみたいと思いました。
 
判決をくだすという言葉は、裁判の結果を知らせるものとして用いられる言葉です。いわゆる「裁き」という言葉であり、これまた聖書ではしばしば登場する言葉です。
 
神の裁き、人間による裁き、世界の終末における裁きなどなど、私たちは裁きという言葉を通して、今まで自分自身がしてきたことの判定について知らされることとなる。それが良かれ悪しかれ、裁きというのはそういうことを指し示す言葉なのだと思わされます。
 
裁きは何も悪い意味だけで用いられることもありません。あくまで公平公平な判断によって真実が明らかにされて、その正しさが証明されたり、不利と思っていたものが有利な判決がくだされたというのも、しばしばあることです。
 
また、イエスは人間の固定観念や神の御心によらない断罪については、厳しい態度をもって戒めている場面を見ることがあります。こうして、裁きの主体はどこにあるのか。それは自分ではなく神御自身であることも、私たちは聖書から知らされます。
 
以上、裁きと判決のかかわりについて書き連ねましたが、今日の聖書の言葉が指し示している裁き、つまり神のご判断によって導き出された判決は、どこを向いているのだろうかと言えば、それは「平和」であるということが分かります。今日の旧約・新約聖書の共通するテーマです。
 
平和とは、地平線がどこまでも広がっている状態。起伏がなく障害障壁もない様子がもともとの意味となり、人間同士の起伏ない関係性、人生の苦難で穴や溝にはまることなく、しっかりと歩むことのできる状態こそ、平和なのだと。
 
この平和によって、人を殺める武器は豊穣の道具として打ち直され、誰かを踏み台とするのではなく救い主イエスご自身が犠牲となることで、世界が平和で満ちあふれる土台となってくださった。その判決を私たちが受け入れるのか、不服とするのかで、世界の現実が見えてくるのではないか、そう思わされます。
 
私たちは神の判決を不服としたところで、本当に独自の基準で平和を生み出せるのだろうか。今起きている、これまで起きてきた戦争や、人間関係におけるいさかいを見れば明らかだし、もし、自分自身のなかに神のご判断が何かについての無知無理解があるのならば、それをもっと深めていきたいと願わされました。
 
こういう黙想が深められることによって、神が愛する平和が見えてくる。私たちすべてにとって、そんな一日でありますように。お祈りいたします。

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