30/04/2022

2022.4.30 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
出エジプト記33章17節より
主はモーセに言われた。「あなたは私の目に適い、私は名指しであなたを選んだのだから。」
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書10章14節
イエスは言われる:
私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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本日の旧約・新約聖書の言葉に共通するのは「知っている」という言葉です。ここで用いている聖書(聖書協会共同訳)では、知っているという言葉は旧約聖書・出エジプト記にはありませんが、ドイツ語聖書(ルター訳2017年版)では、

「私は好意の目をもってあなたを見いだし、あなたの名前をもってあなたのことを知っている。」
 
といった感じで訳すことができます。神の目に適ったモーセが名指しで選ばれたというのは、神がモーセのすべてを知っていたということに相通じるというわけです。
 
そこで、私は今日の御言葉を通して「神に私が知られている」というのはどういうことか、そのあたりを黙想してみたいと思いました。
 
自分のことは自分が一番よくわかっている。私たちはそのようなことを口にするときがあるかもしれません。そうです。自分の「隠している部分・他人に知られていない部分」も含めて、自分のことは自分が一番よく知っているというのです。
 
しかし、私たちは「自分で気づいていない自身の姿」があるということを、決して忘れてはいけないのだと思います。また、私はそうなのだと自分のことを思って疑わなかったとしても、他人の目から見たら全然違う印象を受けるということも往々にしてあるのではないでしょうか。
 
神は私たちにとって「絶対他者」なる存在だとある哲学者は言いましたが、神は私たちとは関係のない他人ということではなく、絶対的に私の知らない部分まですべてご存知である他者であるということを考えれば、今日の聖書の言葉につながっていくのではないか。そのように感じたのです。
 
私たちは他者との付き合いが深ければ、ある程度その人のことを知ることができるだろうし、その人のために気遣いを示したり祈ったりすることもできるでしょう。しかし、その人と交流が薄かったり無かったりすれば、知らないのだからと関心を示すこともなければ、知らないから祈れない、果てには懐疑の目をもってその人のことを見ることはないだろうか。これが人間の現実なのだと思います。
 
そう考えると、神が私たちの体を表す名前を知り、すべてをご存知なうえで好意を示され、牧場の羊を飼うように、愛し慈しみながら育ててくださる。「知っている」という言葉が、どれだけ重い言葉なのかを思わされます。
 
モーセは確かに神の目に適い、出エジプトのリーダーとしての人生を長年にわたって過ごしました。しかし、そのモーセも時には間違いを犯し、決して完璧と言えるような人生ではありませんでした。まさに蒔いた種を刈り取るように、苦難の流浪生活を生きなければならなかった。それがモーセでした。
 
しかし、神はそのようなモーセを確かに知り、最終的には次世代がヨルダン川を越えて、約束の地にたどるために無くてはならない存在として、モーセを祝し続けたことも事実でした。有名だから知っている。能力があるから、目立っているから知っているという話ではありません。神は、その人を隅から隅まで知っているからこそ、その人にとってのベストな人生をお与えくださった。
 
そして、羊飼いであるイエスは、私たち羊をそのような知り方をもって、私たちひとりひとりを今日も大切に、ご自分の言葉と聖霊の働きをもって、ご自分の弟子として養い育ててくださるのだと。自分のことを一番知っているのは私自身でありません。神でありイエスこそ、私たちにとって必要な生き方というものを一番ご存知なのだと。これが今日与えられた黙想でした。
 
そんな神に守られながら、導かれながら、今週の最終日もまた素敵な一日でありますように。お祈りいたします。

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