10/04/2022

2022.4.9 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編97編1節
主は王となられた。
地は喜び躍れ。
多くの島々は喜べ。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙14章17節
神の国は飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
4月9日の黙想を、翌朝掲載することになりましたことを、どうぞお許しください。昨日は、前任地の信徒さんが神様の御許に召されたため、今週半ばに執り行う葬儀の打ち合わせのために東京へ出かけておりました。夜に帰宅してすぐに休んでしまったため、夜のうちにと思いつつ、翌朝の掲載となってしまいました。
 
与えられたふたつの聖書の言葉が貫くキーワードは「喜び」であると私は受け取りました。改めて、喜びとは一体何なのだろうかということを黙想したいと思いました。しかし、一方ではこう思うのです。「喜びのことで、黙想することなど必要ないのではないか。喜びは喜びだ。それ以外は何もないのだ」と。
 
今、私たちはイエスが十字架への道を進まれたことを黙想する四旬節、レントのときを過ごしています。このレントの期間、特にイエスが十字架につけられた時のシーンを聖書から読んでいると、イエスを十字架につけた人々の喜びというものがどこにあるのかということを、ついつい思ってしまいます。人々の喜びは、イエスを十字架につけて殺すことでした。
 
そうなりますと、私たちが体験する喜びというものが、必ずしも神の望まれる喜びであるとは限らないということがわかります。今日の聖書の言葉に記されているのは、神が私たちの王となられたことへの喜びです。神が王となられたというのは、神の価値観でこの世界が満たされることを意味します。そして、その喜びは、神の正義と平和で満たされると、新約聖書の言葉は語ります。
 
私たちは、神が与えてくださるそのような喜びを、自分自身の喜びとしているだろうか。そんなことをやはり自分自身の黙想としたいのです。もし、神の喜びを自分自身の喜びとしているならば、そこには神の正義と平和が宿るのだと。そんなことを心から望みつつ、神の喜びで生きていきたい。そんな風に願わされた次第です。
 
この世界が、神の喜びで満たされますように。それをゆがみなく、私たち一人一人が受け取れますように。

0 件のコメント:

コメントを投稿