27/04/2022

2022.4.27 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ヨシュア記23章8節
今日までしてきたように、あなたがたの神、主にのみ付き従わなければならない。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二3章5節
何事かを自分のしたことと考える資格は、私たちにはありません。私たちの資格は神からのものです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今日の新約聖書の言葉に「資格」という語が登場します。この言葉について、今日は黙想を深めてみたいと思いました。
 
この手紙を書いたパウロは、手紙を書き送ったコリント教会とのあいだで起きていた問題に対して、丁寧にその解決にあたるべく筆を進めていることがわかります。その問題のひとつに「パウロは使徒を名乗る資格はあるのか」というものがありました。コリント教会の一部の人々の間には、パウロにはそのような立ち位置を名乗る資格はないという批判があったようです。
 
余談ですが、私は日本基督教団という団体に所属している「教師」という身分です。そして、教団内の正規の手続きをもって「正教師」という資格を得ています。これをもって、教会の牧師を名乗ることができるというのです。
 
ただ、誤解を恐れず申し上げれば「だから何?」という話なのです。日本基督教団正教師というライセンスを持っているから、牧師としての万能感があるなんていることは全然ないし、そもそも牧師に万能感などあるはずがない。そもそも牧師とは、文字に表せるような資格を得たからどうこうという話ではないというのが、今日の新約聖書の言葉が指し示しているメッセージなのだと、私は受け止めました。
 
パウロは「私たちの資格は神からのものです」と断言します。これも読みようによっては怪しい言葉で、私はみんなにはわからないだろうけれど、神から資格を得ているのだからと、その資格を看板にして強権をふるい、自分の意のなすままに振舞うのであれば、それこそカルトの世界である、ということなのだと。
 
パウロの言う「神からのもの」というのは、一体何をさすのか。その資格をひけらかすことでなければ、自分の自信のなさをカバーするための張り子でもない。いかに主の御心というものに聴従できるか。資格に生きるというのは、神の御前にまず謙遜な態度を求めつつ、謙遜になれない私の現実をさらけ出して、神の御前に立つ。そして歩む。これでこそ、神から与えられた資格に生きるということなのだと、改めて痛感させられました。
 
牧師という仕事が与えられて、働きの場が与えられている今、では、私は神からの任命というものをどうとらえつつ、日々の営みに仕えるか。自分自身にではなく、他者に仕えるよりもまず、神に仕えてこそ他者を隣人として健全に仕えることができるし、自分自身に与えられた資格に対する健全な仕え方をもって、今日も生きていきたいと願わされました。
 
神に幸いを与えられていることが、今日一日を生きる素晴らしい資格であることを握りしめつつ、素敵な一日となりますよう、お祈りいたします。

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