19/04/2022

2022.4.19 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編143編6節
あなたに向かって両手を広げます。
私の魂は荒れ果てた大地のように
あなたを慕います。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録22章17節より
渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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皆さんは朝起きて、一番最初にすることはなんでしょうか。私は、冷蔵庫の扉を開けて、ポットに入れている冷水をコップ1杯飲みます。長年続けている習慣ですが、渇ききった喉を潤すことで、シャキッとした気分となって、朝の黙想に向かうことができています。
 
朝、頭痛で目覚めることもあります。長年の頭痛持ちである私にとっては、決して珍しいことではないのですが、そういうときは温かくした水分を摂るようにします。そうすると、自然と頭痛が取れることが多くあります。まさに「命の水」であることを実感させられます。
 
今日の聖書の言葉は、私の渇きはどこにあるのか。それを潤す命の水とは一体何かについて、黙想を得ることができました。そのときに、私にとって実際に喉を潤うときの体験が思い浮かんだというわけです。朝の目覚めを豊かなものとするために、不調のときに回復するために無くてはならないものとして、水の存在は本当に大切なのだと思わされます。
 
本日の旧約・新約聖書が書かれた頃の環境のことを考えれば、少なくとも水資源な豊富な日本の状況とは全然違うものであっただろうと想像します。荒野が広がるイスラエルという環境のなかで、飲み水を確保するというのはとても貴重なことだったのではないかと思うのです。そういうなかで喉の渇きを癒そうとする人々の思いというものをイメージすることは、本当に大切なことだと思わされます。
 
実際に詩編の言葉を歌ったダビデ王が、自分自身の心を荒野にたとえて、神に渇きを癒してほしいと懇願し、神をしたい求める姿を、今日の聖書の言葉から見ることができますし、今日の新約聖書の言葉もまた、幾多の困難を乗り越えてきて、神によって守られてきた民たちが、神が与えた新天地で命の水をいくらでも口にすることができる。そこには制限などないことを、豊かに伝えています。
 
私はこう受け止めます。私は自分自身の渇きというものをどれだけ理解しているだろうか。その渇きを癒そうとするために、どこに自分自身の軸足を向けているだろうか。そして、神が私の渇きを癒してくださるという保証を、本当に慕い求めているだろうか。そして、そのことゆえに、瑞々しく生きているだろうか。そんなことを考えさせられました。
 
そう考えますと、やはり潤いある生き方をしたいと心から願わされる自分自身があると思わされますから、そのために喉の渇きを癒してくださる神とともに歩む一日でありたい。それが私の一日を潤いあるものとするならば、なおのことだと。。。
 
今日の一日がまた、皆さんにとっても神が与えられる潤いに満たされたときとなりますように。お祈りいたします。

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