29/04/2022

2022.4.29 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ゼカリヤ書8章17節
互いに心の中で悪をたくらんではならない。
偽りの誓いを求めてはならない。
これらすべてを私は憎むからだ――主の仰せ。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙4章32節
互いに親切で憐れみ深い者となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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人のあやまちを赦すことは、そう簡単にできることではない。
 
聖書に「赦しなさい」という言葉が記されていると、自分のなかで起きている許せない感情が浮き彫りにされて、許せない現実と向き合わなければならないとき、赦しなさいという聖書の言葉がとてつもない圧力に感じることはないだろうか。
 
今日の新約聖書の言葉を目にしたとき、私は「赦し」というものをどのようにとらえることができるだろうかと、改めて黙想したいと思わされました。いくら黙想しても、黙想しすぎることのないテーマであると、私はつくづく感じさせられます。
 
私は、赦しというものが最終的には「なされるべきもの」である。なぜならば、それが神が私たちに対してお望みになられていることだからだ。そのことを中心に置いていないと、赦すことのできない自分自身に開き直って、あらぬ方向に自分自身を導いてしまうことになるからだ。そう思います。
 
一方で、どうしても赦すことのできない自分自身があることを正直に、目を背けることなく見つめ続けることを大切にしたいと思います。そういう自分自身があることを受け入れ、認めてあげなければ、どうして隣人を赦すことができるだろうかと思うからです。そして、自分自身もまた、神から赦されて生きている存在なのだということを、聖書の言葉から聴く者でありたいと願わされます。
 
だからと言って、どうしても赦すことができないという感情に振り回されるとき、それを聖書の言葉で無理やり押し込めたり、罪というひと言で片づけてしまうことを、自他に対してしてしまうならば、それこそ暴力的なことなのだと自戒したいという願いもあります。
 
そういったさまざまな思いが交錯するなかにあって、自分自身が神によって解放されることを心から願い出る気持ちを大切にしたいと、あらためて思わされました。そのためにも、私自身、神の抱く価値観というものを自分自身の生き方とできるように、聖書の言葉に聴き、それを己が欲で改変したり我田引水的な利用をすることなく、聴いたことに従っていきたい。これが今朝私がいただくことのできた黙想でした。
 
世界が平和になるためには、まず自分自身が赦しの担い手として立つこと。そういった最小単位の平和が、神の平和、世界の平和へとつながっていくことを信じて、今日も歩んでまいりたいと思います。素敵な一日でありますように。お祈りいたします。

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