10/04/2022

2022.4.10 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書8章17節より
ヤコブの家から御顔を隠されていても
私は主に望みをかける。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テトスへの手紙2章13~14節より
また、幸いなる希望、すなわち大いなる神であり、私たちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望みます。キリストが私たちのためにご自身を献げられたのは、私たちをあらゆる不法から贖い出すためだったのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
 
私たちは、今日から「受難週」に入ります。イエスが十字架上で、人々の嘲笑と憎しみを浴びせられ、苦しみの極みを経験されたことを、私たち一人ひとりの問題としてとらえることのできる一週間です。教会の先人たちは、このような時を通して、自分たちの抱える罪の問題に向き合ってきました。
 
私たちは、自分自身の「いやな部分」に向き合うときに、それは決して心地の良いものではないことをよく知っています。だから、少しでも明るく、楽しく過ごそうと一生懸命頑張ったりするのかもしれません。そして、少しでも暗く、かたく、つまらないものを自分自身のなかから排除しようとします。
 
しかし、私たちはあえて、自分自身の「いやな部分」に目を向け、見つめ、それを自己理解しようと努めるところにこそ、そこに神がどのような希望を与えてくださるのかを理解できるのではないだろうか、と思わされるのです。そういう意味では「暗く、かたく、つまらない」という営みもまた、私たちにとって大切なものなのだと。
 
今日の新約聖書の言葉に、「私たちをあらゆる不法から贖い出す」ために、キリストは私たちに命を与えてくださったとあります。この不法という言葉を、私たちは自分の外にあるあらゆる不法とみなすのか、それとも、私たち一人一人の心や思いのなかで渦巻く不法とみなすかで、罪を贖うという務めを果たされたイエスへの理解というものも随分違ってくるのではないか。そう思えてならないのです。
 
自分自身の不法を見つめるなんて、何といやなことだろう。しかし、それを見つめるからこそ、イエスが私たちの救い主となってくださったことを喜べるのも、また事実なのだと思わされるのです。そういう意味では、教会という場は、時には罪ばかりを強調すると言われることがあります。しかし、それこそ、教会だからこそそのようなことを強調する先にある、救いの喜びというものが見いだせるのではないでしょうか。
 
たとえ、神が私たちの前からその顔を見せない。神が見えない。そんなことが私たちのうちにあろうとも、それでも私は神が喜びを与えてくださることに希望をかけて生きる。そのために、私たちの心にある闇の部分をあえて見つめることは、本当に大切なことなのだとの黙想に導かれました。
 
どうか、この一週間が、イースターへと向かうために無くてはならないひと時となりますように。心からお祈りいたします。

0 件のコメント:

コメントを投稿