30/12/2024

2024.12.30(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編147編5節
我らの主は大いなる方。
力に富み、その英知には限りがない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書2章40節
幼子は成長し、強くなり、知恵に満ち、神の恵みがその上にあった。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
いよいよ2024年も残すところあと2日となりました。一年の締めくくりとして、いつもできない大掃除などを手掛けておらえる方もおられるかもしれませんし、帰省や行楽を楽しまれようとされておられる方もおられるかもしれません。どうか皆さんの行動のうえに、神である主の守りと祝福をお祈りします。
 
皆さんにお祈りいただいておりました伯父は、昨日無事に病床洗礼を受けることができました。伯父は自分が洗礼を受けたことに大変感謝しておりました。がんの痛みと闘いながら、少しでも安らかな日々を過ごして欲しいと心から願っています。皆さん、本当にありがとうございます。よろしければ、引き続きのお祈りをよろしくお願いします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句ですが、私たちにとって知恵や力とは何だろうかということに思いを寄せることができた言葉であったと私は思っています。神の力とその英知(すばらしい知恵)についてほめたたえる詩編の一片の言葉に、私たちがどのような恩恵を受けているだろうかということを考えてみたいのです。
 
私たちがどんなにハレルヤ!と声高に言ってみたとしても、それは「神である主ヤハウェがほめたたえられますように!」という意味ですから、単なる常套句以上に、本当に神様がそのような方であるということの実感ゆえに、そのような言葉が喜びの発露として出されるのが言葉に見合った私たちの表現なのであって、その時に私たちが神との深い交わりのなかで、本当に神様はすばらしい御方なんだという素直な思いというものを是非確かめ続けていきたい。そのように思わされたのです。
 
クリスマスでは、私たちは救い主としてお生まれになったイエスを心から祝います。しかし、赤ちゃんそのものには人の心を和ませるものがあったとしても、その赤ちゃんは成長して、神に育まれて神の知恵と力にあふれてこそ、私たちにとっての救い主としての存在というものが表れてくるのだと私は感じるのです。クリスマスが単なる生誕信仰にとどまらずに、ここからイエスというひとりの存在が、神の知恵と力によって私たちのための存在となっていく。その物語のすべてに私はハレルヤと告白したいと心から願わされます。
 
私たちもまた、そのイエスを通して神から恵みが与えられる。この恵みによって、今日の一日もまた歩むことができますように。皆さんの一切に、神様の祝福を心よりお祈りします。

29/12/2024

2024.12.29(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編84編4節
小鳥さえも住みかを見つけ
つばめも巣をかけて、雛を育てています。
万軍の主、わが王、わが神よ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書8章20節
狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
いよいよ2024年も最後の日曜日を迎えました。クリスマスを迎えた途端に体調を崩して、ローズンゲン黙想も飛び飛びとなってしまいましたが、何とか元気に今朝を迎えることができて感謝の思いにあふれています。仙台の街の急に冷え込むようになりました。今は氷点下2度。仙台らしい天気に身も引き締まります。相変わらずコロナ感染症やインフルエンザが流行しているようですから、お身体に留意されて年末年始をお過ごしくださいませ。
 
さて、今日のローズンゲンに示された旧約・新約聖書に共通する言葉は「鳥」でした。鳥の命と暮らしが神によって守られているということを示す聖書の言葉です。あらためてこの一年を振り返ってみると、神によって自分自身が守られているという感覚を、私たちはどれほど抱きながら過ごしていただろうか。そんなことを想わされます。現実が過酷な状況のなかで日々を暮らしていた人たちにとっては、もしかしたら神に守られているという実感すらわかなったということがあるかもしれません。かく言う私自身ですら、ことごとに起きるトラブルやアクシデントのたびに、神に守られているという確信はあるものの、目の前の難事に頭や心を悩ませるということがあったのも事実です。
 
しかし、狐には穴があり鳥には巣があるという言葉に、どれだけ励まされ慰められてきたことでしょうか! その後に書かれているのは「人の子には枕するところもない」というひと言です。救い主イエスが十字架のうえでただ孤独に、苦しみもだえながら死んでいかれた姿というものを思い出さずにはいられないのです。私たちの命が守られるためにです。私たちが苦しさのなかにあっても、神が必ず守ってくださるということに安心を得るためにです。
 
そんな神に感謝しつつ、今日の一日を歩んでいきたい。そう思わされたのです。私事、今日入院中の伯父を訪ねようと思います。伯父にはここのところ行くたびに救い主イエスを信じ、洗礼を受けることを確認してまいりましたが、その意思は変わりませんので今日病床洗礼を授けたいと思っています。万事神がこの出来事を守り導いてくださいますように、お祈りくだされば幸いです。末期がんで苦しみと孤独のなかにある伯父に、神がともなってくださる信じつつ、祈りつつそのときに携わりたいと思います。
 
あとひとつ。私のこの黙想を愛読してくださった方のひとりである望月克仁さんがおととい召天されたことを伺いました。長いこと若輩の私に声をかけてくださり、励ましを与えてくださった素敵な長老でした。最後にお目にかかったのは10月下旬で、90歳を超えてもなおお元気な姿に驚きつつ、今までお世話になったことのご挨拶をして別れたことを思い出しました。こういう信仰者の御言葉に聴き、そして立つ姿というものを心の励みとして記憶していたいと思ったのでした。あえてお名前を出して主の慰めを祈りたいと思います。
 
今日の一日に、神の守りと平安をお祈りします。

27/12/2024

2024.12.27(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編98編3節
遠く地の果てまで
すべてのものが我らの神の救いを見た。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テトスへの手紙2章13節
また、幸いなる希望、すなわち大いなる神であり、私たちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句は「救い」が共通した言葉として取り上げられています。私たちにとって救いとはなんだろうか。そんなことを考えながら、今日の聖書の言葉をいただきたいと思いました。
 
先日、ある編集者の方と話していたときのこと、あらためて救いとはいったい何だろうねということが話題となりました。私たちキリスト教においては、イエスが私にとって「いのちの救い主」であることを受け入れることによって、救いというものを明らかにし続けてきた歴史があります。私のいのちを自分の命を賭してまでも大切に守り続けてくださる方がともにおられる。私は究極的なものから守られているのだということで生まれる安心感が、私たちにとっての救いなのだと。
 
しかしどうでしょう。私はあえて自己批判的にこのことをあらためて考えてみたいと思うのですが、果たして私たちがどれだけそのことを自分自身が生きる根拠として真剣にとらえているだろうかと。私が生きるなかで起きるさまざまな出来事に救い主が関わってくださっていることを、どれだけ自分自身が生きる堅固な柱としているだろうかということを。そんなことを教会は本当に大切にしているだろうかということを。そんな問いが私に突き刺さって来るのです。
 
目に見えない救い主があなたを救ってくれますよなんて言葉は毒にも薬にもならない、単なる気休めの言葉に過ぎないんだ。私が欲しいのはもっと具体的な助けー衣食住やそれを備えるためのお金、それを保たせるための健康なんだー。もっと自分の願望をかなえさせてくれるための周囲の人々の助けなんだ。そんな声が響いてくるのもまた確かなのです。
 
そういった現実のなかにあっても、しかしイエスが私にとっての救い主なのだということにリアリティを抱きながら生きることの幸いというものを、私はより実感していきたいし、その感動をひとりでも多くの方々と分かち合いたいし、そのために神が全身全霊をもって働きかけてくださっているということが、私たちにとっての救いに他ならないんだということを、クリスマスの余韻のなかで感じ取っていきたいのです。クリスマスが喧噪で終わるのではなく、ここから救いの物語が始まったのだということを心にとどめつつ。。
 
今日の一日が、そのような祝福に包まれた時となりますように。お祈りします。

26/12/2024

2024.12.26(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エゼキエル書34章30節
私が主、彼らと共にいる彼らの神であり、彼らがわが民イスラエルの家であることを、彼らは知るようになる――主なる神の仰せ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書2章11節
今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
『日々の聖句』の原著である『Die Losungen』には、今日12月26日は「第2クリスマス」と記載されています(日本語版日々の聖句では『降誕祭次日』)。クリスマスの余韻に浸るということを考えた信仰の先達によるひとつの工夫なのでしょう。そのような理由で、今日の旧約聖書に基づいて選ばれた新約聖書の言葉は、羊飼いのもとに天使が現れて告知したクリスマスの夜のできごとの箇所でした。
 
しかし、今日私は旧約聖書と新約聖書それぞれの言葉をながめていて、どちらにも「主」という日本語が用いられていることに気付くわけですが、同じ「主」という言葉が用いられていても、旧約聖書で用いられている「主」は言語であるヘブライ語では神の固有名である「ヤハウェ(יְהוָ֛ה)」の訳語です。なぜ「主」という文字が使われるようになったかについては今日は言及しませんが、私は神の名を用いることについていつも思わされていることがあります。
 
私が10代から20代にかけて「エホバの証人」であったことは、多くの方がご存知のことと思います。この団体は「神の名前は『エホバ』である」ことを強調し、神の名前を発音し用いることこそ大切であることを強調します。そして「主」という言葉に置き換えて名前を用いないキリスト教会を痛烈に批判することで、自分たちのアイデンティティーを保っているところがあったりします。
 
私はそのような環境で育ったわけですが、その後エホバの証人をやめてキリスト教会で信仰生活を送るようになり、今牧師として日々を過ごしているなかで感じることがあります。私がエホバの証人時代、神の名はエホバだということを教えられ、その名前を発音することの大切さはこれまでもかということを叩きこまれたわけですが、その名前にはどのような「意味」があり、その意味が私にとってどのような影響や祝福があるのだろうかということについては、ほぼほぼ教えられていなかったような気がします。「私はある(いる)」という神の名前の意味は聖書に書いてあるわけですから頭ではわかっているわけですが、心に落ちていなかったと振り返るのです。
 
そして今、キリスト教会にいる者として、ではヤハウェという神の名前の意味というものに、私たちはどれだけのリアリティを持っているだろうかと問われれば、実はエホバの証人のそれとさほど変わらないのではないかと、私は自戒を込めて思わされるのです。今日のエゼキエル書の一文を読んで、私たちは「主」という言葉を目にしたときに、それが単なる私の「あるじ」くらいに思ってはいないだろうか、と思ったりするのです(もちろん、あるじと思うこと自体は何も悪いわけではないのですが・・・)。
 
今日の旧約聖書の言葉には、「私が主、彼らと共にいる彼らの神であり」とあります。ヤハウェという私たちの神が、私たちとともにおられる(いる)方であり、私たちの神となってくださる(なる)方なのだと。つまり、私が神である主ヤハウェという存在は、ただ突っ立っているだけの方などではなく、存在の全実存をかけて私たちのために生きて働いてくださる、そして常に私たちにともなってくださる方なのだという深い意味が、「主(ヤハウェ)」という名前にかかっているのだと。この意味を教会でどれだけ共有されているのかと私は思わされるのです。
 
このイメージこそ、クリスマスを祝う根拠となるのだと私は思うのです。もちろんクリスマスが多くの喜びを与えるのはいいことなのですが、なぜ私たちに喜びを与えるのかということを問わずして、クリスマスに込められた本質を問うことはできないだろうと私は思います。神の名前に込められた御心の実現こそ、イエスがご自分の生涯のなかで果たされるひとつひとつのできごとなのだと。だからこそ、クリスマスがそのスタート地点であることを心に置きつつ、今日の一日もまた過ごしていきたいと願わされました。
 
皆さんにとってもこの一日が、神である主ヤハウェによる祝福が豊かにありますことをお祈りします。インフルエンザやコロナウイルス感染が流行っていますので、どうぞくれぐれもご自愛ください。

25/12/2024

2024.12.25(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
出エジプト記6章7節
私はあなたがたを私の民とし、私はあなたがたの神となる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一3章1節
私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどれほどの愛を私たちにお与えくださったか、考えてみなさい。事実、私たちは神の子どもなのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。そして、クリスマスおめでとうございます。神がご自分の独り子を私たちのためにプレゼントとして与えてくださった。その独り子の誕生から世界に対する救いの物語が具体的に始まりました。起源的には12月25日がイエスの誕生日である確率は限りなく低く(1/365!)、ある方々からはクリスマスをこの時期に祝う人々は異教に引きずられているということのご指摘を受けたりするわけですが、私はそういうご意見には一定の理解を示しつつも、やはり救い主の御降誕によって、救いの物語がここから開始されたということを毎年この時期に確認できるのは大きな喜びにつながると思っています。そんな思いとともに、今日のローズンゲンに示された御言葉に心を傾けてまいりたいと思います。
 
結局のところ、クリスマス体験というのは「救いの体験」につながるのだと私は確信します。救いとは神が私たちの命をまもり、そのためにいつもともにいてくださること。この一点に尽きるでしょう。ですから、これからの人生のなかで多くの苦難が待ち受けていようとも、神は私たちの命を全身全霊をもって守り抜いてくださるのだと。今日の旧約聖書の言葉は、まさにそのことを私たちに伝えようとしています。出エジプトという40年にわたる旅路での苦しみがいかにあろうとも、神は私たちをご自分の民としてくださるというのです。神の名である「主(ヤハウェ)」には「(あなたがたは私の神と)なる」という意味が含まれています。まさに、今日の出エジプト記6章7節の言葉に相通じていくのです。
 
そのような深い守りのなかで、神は私たちにイエスを与えてくださった「主は救い」という意味の名前が付けらえた救い主イエスをです。私たちを愛する子どもとしてくださる神が、まず最愛の独り子であるイエスを私たちに与え、神の子としての存在を明らかにしてくだsったのです。このイエスを見上げることで、私たちもまた神に愛された子どもとして生きることが出来るのです。イエスが洗礼を受けたときも、イエスが山上で白く輝いたときも、天から聞こえてきた声は「私の愛する子」という言葉でした。この言葉に私たちもまたあずかることができるのです。
 
昨日のクリスマスイヴ礼拝で、ひとりの歳若い方が洗礼をお受けになりました。私にとっても1年振りに洗礼を授ける機会となり、ちょうど30人目の授洗者でした。洗礼を授けるたびに思うのですが、ここに「神の子にされる」という体験を自他ともに確認するとても素敵な機会なのだと思わされています。そして、明くる朝にこうして具体的な御言葉とともに与えられるところに、大きな喜びをかみしめているところです。今日からしばしゆっくりできる日々を過ごせますので、クリスマスの余韻を楽しみつつ、一日を過ごしてまいりたいと思います。皆さんのクリスマスに、神様の大きな祝福がありますように。お祈りします。

23/12/2024

2024.12.23(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編51編5節
私は自分の背きを知っています。
罪は絶えず私の前にあります。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一1章9節
私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日は多くの教会でクリスマス礼拝を祝われたことと思います。そして明日24日の夜からクリスマスシーズンが始まります。救い主イエスによる物語はクリスマスで終わるのではなくクリスマスから始まります。私が働く仙台宮城野教会でも明日洗礼を受けられる方がおられます。救い主イエスとともに新しい人生の一ページを開くことのできる方に立ち会うことができ、本当に嬉しく思っております。
 
そんなことを想いながら、今日のローズンゲンに示された聖句に触れました。旧新約聖書に共通するテーマは「罪」という言葉です。救い主イエスは何をどのように救うために私たちのもとへ来られたのでしょうか。私たち人間の罪の状態から救い出すために、神は私たちにイエスを与えてくださいました。イエスとは「主は救い」という意味の名前です。名は体を語る。まさにイエスはそのような務めを私たちに対して実際になされるのです。
 
罪とは「神に届かない」状態のことを指します。どんなに的に矢をめがけても当たらないのです。神に完全に背を向けて独立独歩の道を歩むことが罪の本質なのですが、たとえ私たちが神に顔を向けようとしても、私たちが認知の歪み、認知のズレによってとんでもない方向へ私たちが突き進んでいってしまうがゆえに、神に届かないことも多々あるのです。これも罪がなせるわざなのです。
 
そういう時こそ「クセの悪い」ものはないと、私は自戒を込めて思わされるのです。私自身、自分の都合の良いように物事を解釈することがありますが、それが本当に神がお望みのことなのだろうかということへのイメージが足りないときに、経験上いろいろな思い違いや選択の誤りをしてしまうことがあるのです。特に人間関係においては、そのようなミステイクはしょっちゅうあるのです。
 
そんなときに、神が結び合わせてくださった人と人との関係性というものに対して、私はいかに自分中心に物事を考えているのだろうかと思わされます。相手にへつらったりおもねたりすることもなく、ただ神の思いを謙虚に聴きつつ、自分自身に与えられた道を、神とともに歩んで行きたいと思わされました。
 
クリスマスを間近に迎える者として、神との関係、イエスとの関係をじっくりと見つめることのできる一日でありますように。神が私に良い気付きを与えてくださいますように。そして、神が救い主を与えてくださったことに喜べる一日でありますように。皆さんの主にある守りと祝福を心からお祈りします。
 

21/12/2024

2024.12.21(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編84編3節
私の魂は
生ける神に向かって、身も心も喜び歌います。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書1章21節
私の主のお母様が、私のところに来てくださるとは、何ということでしょう。あなたの挨拶のお声を私が耳にしたとき、胎内の子が喜び躍りました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
この一週間も最終日となりました。おとといの夜から風邪の症状が出てきて、昨日は特に咳がひどく一日マスクをしながら生活をしていました。明日の礼拝までには身体を整えて一日を過ごしたいと思います。風邪がとても流行っているようですから、皆さんもどうぞ御身体に気を付けて明日の主の日を迎えることができますように。お祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示された御言葉に触れた時に、正直申し上げるとこの聖句に逆行するような私自身の思いがあったことに気付かされました。体調が悪いせいもあるかもしれませんが、とても喜べるような状況ではありませんでした。ここのところ自分自身の身の回りに起きたいくつかのできごとにショックを覚え、とても落ち込んでいたのです。そんなことにくよくよしている自分自身が情けなく思いつつも、でもそう思うのだからそれを無理に蓋をする必要もない。しかし、喜べない状況に自分の身を置くことがこんなにも辛いことだったということに、改めて気づかされる朝を迎えました。
 
しかし、そういう時にこそ神が助けてくださるもの。今朝は夜明け前に一回目覚めたのち、祈りながら時を過ごしてもう一度床に就きました。7時頃に一本の電話がありました。電話の主はともに祈り合う年長の大切な友でした。私から何も自分の気持ちなどその方に言っていないのに、その方は私が今まさに直面していることをすべて知っているかのように「心配していたんです」と。
 
私は不安のなかにあっても天使の告知を前向きに受け止めたマリアが親戚エリサベトを訪問した時に、エリサベトの胎内にいた子ども(洗礼者ヨハネ)が喜び踊ったという今日の新約聖書の言葉に、自分自身の今の姿に素直に重ね合わせることができたのでした。その方との電話は30分くらいにおよびましたが、自分自身の思いを分かってくれる人がいるというだけでとても慰められた気持ちになりましたし、神もこのことをご存知であるということに、しみじみと喜べる、そんな思いにさせられたのでした。
 
喜びとは、ただ乱痴気騒ぎをすれば良いというものでは決してなく、内面から沸き起こってくるものなのだ。そんなことを体感できたことに喜びをおぼえ、今日与えられた聖句に支えられながら一日を歩みたいと願います。どうぞ皆さんの一日にも、喜びを携えてくださる神である主がともにいてくださいますように。お祈りします。

20/12/2024

2024.12.20(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書45章17節
イスラエルは主によって救われる。
それは永遠の救い。
あなたがたは代々とこしえに
恥じ入ることも辱められることもない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書1章21節
マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句のうち、新約聖書の言葉として選ばれたのはマタイによる福音書1章21節の聖句でした。天使がイエスの母となるマリアの婚約者ヨセフに現れたときに、天使によって予告された言葉です。
 
婚約者マリアから生まれる男の子は「イエス」と名付けられると天使はヨセフに告げました。イエスは「主は救い」という意味があります。旧約の時代、出エジプトのイスラエル人を率いた指導者モーセのあとを継いで、民たちとともに約束の地カナンにたどり着いたヨシュアと同じ名前であり、当時イスラエル人の男の子にはしばしば付けられた名前でもありました。
 
しかし、ヨセフにとって婚約者から生まれてくる子どもに、このような名前が付けられることを神の使いから告げられることには大きな意味がありました。マリアとは性的な関係を結んでいなかったにもかかわらず、妊娠してしまったマリアは格好のスキャンダルの的となることは大いに予想できたことでした。実にヨセフは苦悩の渦中にいたのです。そんなヨセフに「主は救い」という名前がマリアから生まれてくる子どもに付けられることが、彼にとってどれだけ慰めになったことであろうと思えてならないのです。つまり、ヨセフにとっても神である主ヤハウェがこの子どもを通して救いを携えてくださるということを実感した当事者だったのです。
 
クリスマスも間近に迫るなか、お生まれになられたイエスの名に込められた深い意味というものを心に刻みながら、新しい一日を歩むことができますように。皆さんにとって神である主の救いを実感できる時となりますように。お祈りします。

19/12/2024

2024.12.19(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
創世記37章14節
出かけて行って、兄さんたちは無事か、羊の群れは無事かを見てきてくれ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙10章24節
互いに愛と善行に励むように心がけなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日は早朝から用事があり、黙想をブログアップすることができませんでした。伯父が入居する施設見学を数か所でしてまいりました。自分自身にとっては初めて知ることばかりでしたので、とても新鮮な学びの機会とはなったのですが、市内とはいえ3か所の施設をめぐるのは少し疲れてしまいました。伯父にとってベストな入居になればと心から願いつつ、施設を決定したいと思いました。
 
私事はここまでとして、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するテーマとは何だろうかと考えておりました。旧約聖書の言葉は、父ヤコブ(イスラエル)がもっとも愛していたヨセフに対して、羊飼いをしている兄たちの安否を尋ねるために出かけるようにというお願いをしたときのものです。ヨセフは父親の願いを聞き、実際に兄のところへ行くわけですが、日頃から弟ヨセフのことを苦々しく思っている兄たちは、これを機会にヨセフを殺してしまおうと画策することになります。結果としてヨセフは殺されるまでとはいかなくとも、穴のなかに放り込まれた末、遠くエジプトへ売られてしまうことになりました。
 
兄たちの弟に対する恨みが、その後の多くの悲しみを生む結果となりました。それを受けての今日の新約聖書の言葉は、イエスを救い主として受け入れる者としての「生き方」について書かれたものです。「愛と善行」に励みましょうという勧めが記されています。ここで言う愛も善行も、その源流が神に由来することを示す言葉です。つまり、人を愛することも善行をなすことも、それを自分自身から起きてするものではなく、神が私たちを愛して、私たちに善いことをなしてくださる神とともに歩むことが、結果として互いに神の愛を共有し、神がただ善い御方であることを心から受け入れる者として生きることの幸いについて、このヘブライ人への手紙の一節は述べられているのだろうと受け止めました。
 
つまり、創世記に書かれている今日の聖句が指し示すところと、新約聖書の聖句として選ばれたものとの間には、共通点というよりはむしろかけ離れているようにも思える、今日のふたつの聖句だと私は思わされました。もしヨセフの兄たちが、自分自身の切なる欲求に忠実、つまり憎い弟ヨセフを殺すなどということを、父の願い、神の願いに立って考えれば、そのようなことが実行に移されるなどなかったことでしょう(この事件があったからこそ、神はヨセフを通してこの後のイスラエルの歴史をつくりあげたことも事実なのではあるのですが・・・)。
 
私たちが日々生きる時に、愛と善行というものをどのようにとらえ、考え、自分自身の生き方とすることができるか。そんなことを神の視点から考えるために今日の聖句が用いられていることを神に感謝しつつ、今日の一日を過ごしてまいりたいと思います。皆さんの一日にも、そのようなかみからの愛と善行がゆたかに、ともにありますように。お祈りします。

17/12/2024

2024.12.17(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編94編15節
裁きは義に帰り
心のまっすぐな者は皆、それに従う。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書18章7~8節
神は、昼も夜も叫び求める選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでも放っておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通する言葉は「裁き」でした。そのことを踏まえて黙想したいと思いました。
 
今日の旧約聖書の言葉である詩編94編15節で歌われている「裁きは義に帰る」という言葉ですが、ここで言う裁きは原語(ヘブライ語)では「ミシュパート〔מִשְׁפָט〕」という語が用いられており、義は「ツェデク〔צֶדֶק〕」という語が用いられています。どちらも旧約聖書では神のご性質を表す大変重要な言葉としてしばしば用いられているものです。
 
ミシュパートはここでは「裁き」という意味としても用いられていますが、多くは「公正」という日本語にも訳することのできる語です。また「判断」という意味も含まれています。ですから、神が執行される裁きとはもちろん断罪するといった意味でも用いられると思いますが、その根源を見れば神の正しさ(ツェデク)に基づいて「公正な判断(ミシュパート)がなされる」と解することができると私は思います。つまり「裁きは義に帰る」という聖書の言葉は、私たち人間に対して公正な判断がなされる神の正しさが私たちとともにあるのだということを想い起こすものとなるということです。
 
そのことを踏まえると、今日の新約聖書の言葉で取り上げられているイエスの言葉は、そもそものテーマは「絶えず祈るべきであり、落胆してはならないこと」(18章1節)を示すためのたとえ話として語られているものであることがわかります。神の目から見て到底誠実には見えない裁判官ですら、切願する女性の訴えにいやいやながらも聴こうとする態度を引き合いに出して、不誠実な裁判官ですらそうなのだから正しさで満ちあふれている神ならば、私たちの訴えに満ちた祈りの言葉に必ず耳を傾け、ご自分の判断によって御心を執行されるのだという内容のたとえ話なのです。
 
ここで改めて思わされます。私たちが日々生きるなかで常に求められている「判断と決断」は、何によってなされることが大切なのでしょうか。それは神のミシュパートとツェデク、つまり、私たちをあくまで公正に扱おうとする正しさによってです。裁きという言葉には「悪いことをしたら処罰する」という意味だけでは決して語れないものがある。その根源にある神の深い思いというものを私たちは今日の言葉から知りたいと思うのです。神は正しい御方である。そのことに希望を抱きつつ今日も歩むことができますように。皆さんの主にある平安を心からお祈りします。

16/12/2024

2024.12.16(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編71編3節
あなたが砦の大岩となり
絶えず入ることができるようにしてください。
あなたは私を救うよう命じてくださいました。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書26章39節
イエスはうつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、私の望むようにではなく、御心のままに。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日などのような日曜日、主の日をお過ごしになられたでしょうか。クリスマスが間近に迫るなかにあっても、世のなかで繰り広げられているクリスマスのにぎやかさとは裏腹の現実が、私たちの日々に突き付けているかもしれません。目の前のことでとてもなにかを祝う気持ちになれない。そんなことがもしあるとするならば、だからこそ、救いの主イエスが私たちのもとにやって来られるということに希望を見いだしたい。今日私たちにローズンゲンの言葉を通して示されたふたつの聖句を通して、私はそのことをなおさら思わされました。
 
今日の新約聖書の言葉は、イエスが十字架につけられる前の晩に弟子たちと最後の晩餐をした後に、ひとり神に祈った時の言葉です。この時イエスが神に祈ったのは、できるものならば苦しみを取り除いてくださいというものでした。イエスは分かっていました。いよいよ自分が十字架に向かわなければならないということをです。痛み苦しみを味わわなければならないそのような緊迫した状況のもとで、イエスは神にそのように願いました。しかし、イエスは言葉を続けます。自分の願い通りではなくただあなたの御心がなりますようにと。
 
かつてイエスの母であったマリアが身ごもったときに、天使の言葉に戸惑いながらも、またこれから自分自身に起こり得る命の危機というものを察しながらも、「お言葉どおり、この身になりますように」と天使に応えました。まさにこのマリアの言葉が、今や十字架に向かおうとしているイエスの「御心のままに」という言葉と重ね合わさるような気がしてならないのです。
 
どんなにクリスマスを祝っても、だからといってすべての問題が解消されるわけではありません。クリスマス休戦がもしあったとしても、その翌日からはまた戦争が再開される。根本的な所は何も変わってはいないのです。しかし、私たちはだからこそ、神の御心というものは私たちの想像や理想を超えて必ず存在するのであって、その御心が何であるかを丁寧に、かつ丹念に探り続けていくことが大切だし、そのために神が与えてくださった御言葉に聴き、聖霊の助けをいただきながら祈り続けることの大切さを想わされるのです。神の御心を神の御心として受け取るときに、神の存在が「岩の砦」のように、私たちを守ってくれるに違いないのです。
 
そのことを希望の土台として、今日の一日を、そして残り少ないアドヴェントの日々を過ごすことができますように。心からお祈りします。

14/12/2024

2024.12.14(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
サムエル記下12章9節
なぜ、主の言葉を侮り、私の意に背くことをしたのか。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙7章24~25節
私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか。私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝します。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今週も最終日を迎えました。この一週間、どのような毎日を過ごすことができたでしょうか。そんな日々の歩みを振り返りながら、今日の御言葉に耳と心を傾けつつ、ローズンゲンに示された聖句に聴きたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、ダビデ王が既婚者の女性を妊娠させてそのことをうやむやにするために、女性の夫を王の権力を用いて戦場の最前線へ送って戦死させ、未亡人となった女性を自分の妻としたところに及んだ神の言葉です。バト・シェバの夫ウリヤはそのようなダビデの身勝手な行為によって命を落としたのでした。
 
ダビデのそのような行為に神が黙っているはずがありません。神は預言者ナタンを通してダビデに叱責の言葉を与えます。それが今日の旧約聖書の言葉です。王にとって果たさなければならない務めとは神が与えられた命を尊ぶことです。神がそのような意志をお持ちなのに、ダビデは自分自身の欲望によって神の思いをいとも簡単に踏みにじったのでした。本来ダビデが王としてイスラエルを統治できるのも、そのイスラエルが繁栄に満ちたのも神がダビデにご自分の願いを託したからでした。ですからダビデに求められていたのは神の御前にただ謙虚に生きることだったのです。
 
しかし、ダビデは自分の王としての立場をあたかも自分自身の努力や能力の結果のように思ってしまったのでしょう。そのような勘違いから来る傲慢さが、結果としてウリヤの命を間接的に奪いました。そしてこの後、ダビデの家族も災いに遭うことになります。実に多くの命が犠牲にされたのでした。神が命を尊ぶということの意味を、ダビデは痛感しなければならなくなったのでした。
 
私は自分自身に当ててこの言葉を振り返りました。自分にとって傲慢さとは何か。どういうところからそのような傲慢さが起きるのかということをです。それに気づけないとしたら、それはなんと惨めなことだろうか。今日の新約聖書で手紙の筆者であるパウロが自分自身を振り返って自分の情けなさと惨めさを実感したように、私自身も神に生かされていることに気付けない場面が自分の生活の各所にあることを改めて思わされるのです。
 
そのために、私たち人間のかたちをとって私たちとともに生きられた救い主イエスが神によって与えられたことは、本当に私たちにとっての慰めであり喜びなのだと私はあらためて思わされたのです。イエスの生き方というものを通して、私たちがいかに自分自身の傲慢から脱却しようと気づかされたときにこそ、多くの喜びが神によって与えられる。この経験こそ大切なのだと私は思わずにはいられないのです。
 
クリスマスを間近に迎えるなかにあって、なぜ私たちは喜べるのかという原点に帰って、明日への備えの一日を過ごしていきたいと思いました。クリスマスが単なる祭りではなくて、悲惨な状況にある私たちに救いの道を提示してくださる神が、私たちがそれに気づけるようにイエスが目に見える形で与えられたことが、今日の私を生きる励みとなることが出来ますように祈ります。皆さんもどうぞ救い主イエスにあって、素敵な一日を送られますように祈ります。

13/12/2024

2024.12.13(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
出エジプト記3章6節
モーセは顔を隠した。神を見るのを恐れたからである。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書17章7~8節
イエスは近寄り、彼らに手を触れて言われた。「立ち上がりなさい。恐れることはない。」彼らが目を上げて見ると、イエスのほかには誰もいなかった。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通する言葉は「恐れる」という言葉にあると思います。そのあたりのことをつづってみたいと思います。
 
日本語で「おそれる」という言葉を、聖書では今日の聖句のような「恐れる」という言葉と「畏れる」という言葉に使い分けています。恐れるとは恐怖の側面が強く、畏れるになると神への畏敬の念といった意味合いで用いられるわけですが、実はこれらの言葉のあいだには意味として明確な違いはないのです。国語辞典でも「おそれる」という言葉のなかに恐れるも畏れるも含まれていますし、聖書原語であるギリシア語でもヘブライ語でも同じ単語が用いられています。つまり、恐怖と畏敬というのは表裏一体の言葉であるということが分かります。また、畏敬という言葉には「信頼」や「服従」という意味も含まれています。
 
私は、これらの意味を踏まえてこんな風に考えてみました。私たちが最初は神の存在が恐怖に思えるようなことがあったとしても、その神は敬いかしこむにふさわしい存在であることに気付かされて、私たちは神に信頼することもできるし、服従へと導かれるのだと。それが「おそれる」という言葉にすべて包含されているのだと。
 
エジプトからイスラエルの民を脱出したときの指導者であったモーセがそうでした。彼は自分が同胞から殺されるのを恐れて逃げた後に神に出会いました。柴が燃え続ける不思議な光景のなかで、今日の聖句が物語るように彼は神の存在に恐れて顔を隠します。しかし、その神こそモーセを民たちの指導者に立てて、出エジプトという一大事業の担い手として遣わそうとされるのです。モーセは神に恐怖を感じるのではなく、まさに畏敬の念を抱きつつ、神が信頼してくださっていることに信頼で応え、神へ服従する歩みを始めました。
 
今日の新約聖書に描かれているのは、イエスの使徒であるペトロたちが変貌したイエスに神が語りかけて、ご自分の子であることを宣言した時に、その不思議な光景に恐怖を抱いたシーンのなかでイエスがペトロたちに語られた言葉です。恐怖におびえる弟子たちにイエスは手を触れられます。その手の温もりが感じられるなかで、恐怖に陥らなくても良いことを彼らに伝えます。恐怖のなかで感じる手の温もりと優しさに満ちあふれた言葉こそ、彼らの思いを和らげるものがあった。まさに私たちにとってイエスとはそういう御方であることを想い起こさせます。
 
最初は恐怖に感じることがあったとしても、神の言葉と聖霊様の助けによってその恐れは畏敬の念へと変えられていくことで、神との深い信頼関係が築かれるからこそ、私たちは神に服従し、神とともに歩む幸いというものが私の心を満たすのだ。そんなイメージを描きながら、今日も神とともに歩みたいと願わされました。どうか、皆さんの一日にも、そのような神様が豊かに臨んでくださいますように。お祈りします。

12/12/2024

2024.12.12(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ヨブ記5章11節
神は低い者を高く上げ
嘆く者を引き上げて救う。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一1章27節
神は強い者を恥じ入らせるために、世の弱い者を選ばれました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私は「低き者に視線を注がれる神」という言葉が思いに浮かびました。そのことをつづりたいと思います。
 
弱い者とは誰でしょうか。また、強い者とは誰のことなのでしょうか。私自身のことを振り返れば、時には弱者にもなるだろうし、強者にもなるのだと思います。つまり、相手が誰になるかでその位置というものは変幻自在に変わるのだと私は考えています。
 
私たちはどうしても自分の立ち位置を確認するために、人と比較することがあります。そのことがとても分かりやすいからです。自分より弱く、見劣りし、かわいそうだと思える人がいたとします。そういう方々に手を差し伸べる事自体全然悪いことではありませんし、むしろ推奨されていることでもあったりします。しかし、私たちはそういう人に対して、なぜか強者になってしまうということがあるのです。すぐに見返りを求めます。自分の思い通りにならなければ、弱者に対して悪感情を抱くこともあるかもしれません。恩着せがましい態度を表してしまうこともあるでしょう。そういう時に、私たちは明らかに強者になってしまうのです。
 
だからこそ、私たちは誰の前では弱者なのかということを、いつも心に刻んでおく必要があるのでしょう。私たちは、神の御前ではいつも弱者なのです。神がいなくても生きていけると豪語しながら、私たちは大なり小なり隣人に優劣をつけながら生きようとして自分を高めたり低められたりするので、そのような社会には平安が訪れることがないのだと自戒を込めつつ思わされるのです。
 
だからこそ、今日の聖句が示すように、ヨブがそうであったように、使徒パウロがそう手紙に書きつづったように、十字架のうえで弱みの極みまで歩まれた救い主イエスのように、自分自身もまた、神の御前に弱さを抱いた人間であることを想うときこそ、神が低きところから救いあげてくださるのだと。自分自身のなかにある強さというものが打ちのめされて、神とともにこの一日も歩むことができるのだということに、心を寄せていきたいと思ったのでした。
 
神が今日も私たち一日の生活に多分に関わってくださいますように。こうして得られる平安な思いが、私たちの生きる礎となりますように。お祈りします。

11/12/2024

2024.12.11(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
箴言10章28節
正しき者の望みは喜びとなる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書12章36節
主人が婚礼から帰って来て戸を叩いたら、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖書の言葉は、どちらも「希望」を持つ心構えのようなものを私たちに示唆していると私は受け止めました。そのことについて綴ってみたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、箴言10章の一節でした。正しき者の望みは喜びとなる、とあります。ここであらためて確認したいと思ったのは、正しい者とは誰かということです。また、正しい者というのはどのようにしてつくりあげられるものなのでしょうか。
 
旧約聖書において、正しい者とは誰かという問いに対して、正しさを持っておられるのはただ神だけであるというのが、一貫して語られていることです。ですから、私たち人間のうちで誰が正しいのかと言えば、神との関係性のなかで生かされている人ということになります。もしくはこういう言い方もできると思います。神が私たち一人ひとりに関係性を求めておられるその声に、答え応じる人が神の正しさによって生きることが出来る者であるということです。
 
つまり、神が思い、願い、望んでいることをないがしろにして、自分自身が神を一生懸命信じています。私はクリスチャンですと言っても、それは実に希望を生み出すことのない空しい出来事なのだと私は自戒を込めて思うのです。私たちの希望は、神の抱かれる希望に連動されてこその希望だし、そのためには神がご自分の言葉と助け主である聖霊の助けによって、私たちに何を願っておられるのかということを、謙虚に、真摯に尋ね求めることが大切なのだと私は受け止めたいのです。
 
そのようにすることで生み出される希望は、神と私たちが「喜び」でしっかりと結ばれている源となるのでしょう。そのような神との関係性を是非いただいていきたいのです。救い主が私たちのもとへやってくる希望。今日の新約聖書の言葉が語るところの主旨がそこにあります。アドヴェントの一日一日を通して、私たちがそのような希望というものをいよいよ本格的なものへと自分自身の思いを神によって高めさせてもらえるように、今日も一日を過ごしてまいりたいと思います。皆さんの新しい一日に、希望を与える神である主がともなってくださいますように。お祈りします。

10/12/2024

2024.12.10(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書60章20節
あなたの太陽は再び沈むことがなく
あなたの月は欠けることがない。
主があなたにとって、とこしえの光となり
あなたの嘆きの日々は終わる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二4章6節
「闇から光が照り出でよ」と言われた神は、私たちの心の中を照らし、イエス・キリストの御顔にある神の栄光を悟る光を与えてくださいます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
最初に私事になりますが、ちょうど4週間前の朝に眼底出血を起こして左眼が見えなくなりました。それから治療が始まりましたが、4週間経って左眼の見え方がかなり改善してきました。細かい文字を読んだりすることは少し難しいのですが、8割がたは見えるようになってきました。来週眼科外来へ行って検査をしてもらいますが、前向きに進んでいることを実感して、とても嬉しい気持ちにさせられています。皆さんのお祈りに心から感謝いたします。ありがとうございます。
 
そんな私の状況に、今日のローズンゲンの言葉はまさにとても分かりやすく入り込んでくるものでした。この12月、日照時間も少なくされていくなかにあって、まさに「闇」というものを感じやすいこの季節に、闇に神が光を投じていくことを想うアドヴェントの時が与えられて、心のなかにある嘆きや悲しみというものが救い主によって癒されていくことへの希望が芽生えてくる。これこそ、今日の新約聖書の言葉で述べられている「神の栄光を悟る光」なのだと心から思わされました。
 
栄光という言葉には、本来「光」という語の意味は含まれていません。しかし、栄光という言葉には、誉れを受けるにふさわしく、また幸いを約束し保証する力という意味がありますので、神がそのような御方であると同時に、そのことを端的に表現するものとして「光」という言葉が用いられる。まさに私たちに救いの約束をイエスを通して与え続け、それを保障する神のひたむきさというものに、私たちが生かされているのだと思えてならないのです。
 
今日も私たちは神が放たれる光によって心のなかも照らされて、自分自身のありようを見つめながら、新しい一日の歩みを始めることができました。闇の部分がなんであるかが、神の栄光によって明らかにされるときに、そのことで落胆することがあったとしても、その先には希望があるということを心にとどめながら生きることができますように。皆さんを守ってくださる神が、歩む道を指し示してくださいますように。お祈りします。

09/12/2024

2024.12.9(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編5編12節
あなたのもとに逃れるすべての者が喜びますように。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二6章4,10節
あらゆる場合に自分を神に仕える者として推薦しているのです。貧しいようでいて、多くの人を富ませ、何も持たないようでいて、すべてのものを所有しています。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖書の言葉を通して、今日は「逃れる」ということについて、黙想をしてみたいと思いました。
 
私たちが逃れる、もしくは緊急に避難をしなければならない状況になったときに、自分の持っているものや大切にしているものを犠牲にしなければならないこともあるかもしれません。そして、大切に思えば思うほど、未練のようなものが私たちの心中を駆け巡ることもあります。その結果、逃げることに対して臆病になってしまったりするのです。そして逃げられない環境のなかで、さらに多くの犠牲を払わなければならないこともあるかもしれません。
 
ロトの妻がそうでした。アブラハムのいとこであったロトの妻は裕福な生活を捨てなければなりませんでした。ソドムとゴモラの街が滅亡してしまうからです。神は彼らが逃げるに際して、決して振り返ってはいけないことを命じられました。しかし、ロトの妻は今まで豊かに暮らしていたその生活に自分の視線を向けてしまいました。彼女が振り返った時に、彼女は塩の柱になってしまったというあの話です。
 
私はいろいろ考えさせられました。時には捨てなければならないということをです。逃げるということの大切さをです。もちろん、立場上責任をもってそこに取り組もうとする時に、そう簡単に捨てられず、また逃げたくなるようなことがあっても逃げられない現実というものがあることは確かです。しかし、そのことで自分自身を見失ってしまうようなことがないだろうか、それよりも神との関係性というものをないがしろにしてまでも、自分の持ち物というものに固執してしまっている自分自身はないだろうか。そんなことを思ったのです。
 
今日の旧約聖書の言葉は、逃げるところにこそ幸いがあるということを私たちに伝えるものでした。逃げる先は神です。その神に私たちは現実のしがらみのなかから宝を見つけ出すようにその先へ駆け込むことができるのだと。そんなイメージが心のなかにわいてくるのです。そして、そのような絡みつくさまざまなものから解放されるときに体験できる神の喜びというものに、私も是非あずかりたいと思ったのです。
 
一見逃げることとか捨てることは、何かを失うというイメージを起こすかもしれませんが、かえって富む結果となることを心の希望として、今日の一日を歩んでまいりたいと願います。皆さんの一日にも、神の喜びがともにありますように。心からお祈りします。

08/12/2024

2024.12.8(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編106編6節
私たちは先祖と共に罪を犯し
過ちを犯し、悪を行った。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙一3章28節
私たちは、人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日(12月7日)の黙想は私の都合でお届けすることができませんでしたが、とても深く考えさせられる聖句でしたので、時間のあるときに投稿したいと思います。どうぞよろしくお願いします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句のうち、今日は新約聖書・ローマの信徒への手紙の一節から特に黙想を得たいと思いました。私たちが「義」とされるのは「律法の行い」によってではなく「信仰」によってである、という聖書の言葉です。特にプロテスタント教会が大切にしてきた「信仰義認」という考え方は、この聖句(他にもありますが)に基づいていると言えるでしょう。
 
ただ、この信仰義認という考え方も場合によっては誤解して受け入れてしまうのではないかと私は思うのです。どういうことかというと、私たちが義とされるというのは、私たちそのものが正しい人間に変化するという意味ではなくて、正しい御方である神が私たちとともにいてくださり、私たちの生活と人生をご自分の価値観で支えてくださることで、私たちは「神の正しさ」によって生かされていくということを意味しているとわつぃは考えます。
 
ですから、私たちが正しいとされるのは「律法の行い」からではないというのは、私たちが自分「だけ」の努力や道徳観念で正しい者となるのではないということを示していると考えれば、唯一正しい御方である神によってこそ私たちが生かされていくのだということが連動し、すっきりとするのだと私は思います。
 
そう考えれば「信仰によって」私たちが義とされるということもまた、受け止め方には注意したい言葉なのだと思います。つまり、私たちの信仰生活というものが、知らず知らずの間に「律法化」してしまうのではないだろうか、ということも考えるのです。つまり、ここで言う信仰とは私たちの努力や修業で勝ち取るものではないということです。そうではなくて神から賜るものであるということです。信仰とは得るものではなくいただくものなのです。
 
信仰とは、「望んでいる事柄の実質であって、見えないものを確証するもの」(ヘブライ人への手紙11章1節)です。その実質となり確証となったのが、救い主イエスに他なりません。つまり、信仰の実質であるイエスが私たちに与えられて、そのイエスが救いというものを確証してくださった。信仰によって義とされるというのは、そのようなイエスが与えられたということへの気づきであり、その気づきが神とともに生きるという私たちの言動へと発展していくのでしょう。
 
今日から新しい一週間が始まりました。どうぞ一切に、神が、そしてイエスがご自分の正しさをもって私たちに臨んでくださいますように。お祈りします。

2024.12.7(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
創世記4章10節
主は言われた。「何ということをしたのか。あなたの弟の血が土の中から私に向かって叫んでいる。」

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テモテへの手紙一1章15節
「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、すべて受け入れるに値します。私は、その罪人の頭です。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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06/12/2024

2024.12.6(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書32章17節
ああ、主なる神よ、あなたは大いなる力を振るい、腕を伸ばして天と地を造られました。あなたにできないことは何一つありません。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書3章16節
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して私が黙想したいと思ったのは「神の御力」についてです。そのことについて綴ってみたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、天地万物を創造された神の力について述べるものでした。私たちはその力についてどのようにとらえ、考えることができるのでしょうか。何かをつくりあげる力というものに、私たちは強さのようなものを感じるのではないでしょうか。そしてそのような神の力強さによって、私たちもまたつくられて、その人生が導かれているというイメージを抱くことができると思うのです。
 
しかし、今日の新約聖書の言葉は神の力が別な意味で語られているのは、大変興味深いことと言えるでしょう。神の力は私たちの命が救われるために、ご自分の独り子を地に降されることによって示されたことが記されているのです。実はこの神の力は、強さどころか弱さが際立っているようにも見えるのです。天使たちの賛美が暗闇を照らしたとはいえ、家畜小屋でひっそりとお生まれになられたイエスは、決して救い主とされる者の誕生には似つかわしいものではありませんでした。弱く小さくされたなかで、無力とも思える赤子が生まれたのでした。
 
そのイエスが十字架にかかられて死なれるときも、そこに力強さのようなものを見い出すことはとても難しいのです。民衆から見捨てられ、神からも見放された状況のもとで、孤独と弱さのなかで十字架の苦痛に耐えられたイエスがおられました。つまり、イエスという人の生涯における力強さには、どんなときも「弱さ」というものを兼ね備えながら私たちにそのことが示され続けられたと言っても過言ではないのです。
 
しかし、その弱さこそ神の力強さなのだと私は受け止めたいと思いました。後に使徒パウロは「弱いときにこそ強い」(コリントの信徒への手紙二12章10節)と手紙に書きました。つまり、それはパウロ自身の生き方であったのですが、それは神の真の力強さというものがどこにあるのかということを尋ね求めた末での、パウロ自身の結論だったのでしょう。どんなに弱くされても、万物を造られる神の強さと、すべての弱さというものを甘受された神の逆説的な強さ。この強さに今日も被造物である私たちひとりひとりが生かされていることを胸にして生きていきたい。そのように思わされ願わされました。
 
どうか神である主ヤハウェが、今日も皆さんの一切にご自分の力を示してくださいますように。お祈りします。

05/12/2024

2024.12.5(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ゼカリヤ書8章19節
真実と平和を愛せよ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
フィリピの信徒への手紙4章7節
あらゆる人知を超えた神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスにあって守るでしょう。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するワードは、昨日に引き続き「平和」という言葉でした。昨日とはまた違った視点から、今日の聖句を通して黙想したいと思います。
 
今日の旧約聖書であるゼカリヤ書8章19節の終わりの言葉が、今日のローズンゲンとして選ばれています。真実と平和を愛しなさいと。大切なのは、この真実と平和というものがどういうところから来る真実であり平和であるかということです。真実にしても平和にしても、聖書で語られているこれらの言葉は神である主ヤハウェを起源としたものです。主のご性質、行いと言葉を通してご自分が十分に信頼に足る者であり、その信頼をもって私たちを取り扱ってくださるときに、私たちは真実を愛し、その結果神がくださる平和をも愛することができるということなのです。
 
ですから、これらの言葉は「神の真実」「神の平和」と具体的に述べることができるものなのです。そして、真実という言葉は「信仰」という意味でも用いられるものです。信仰とは私が神に向かう姿ということ以前に、「望んでいる事柄の実質であって、見えないものを確証するもの」(ヘブライ人への手紙11章1節)です。つまり、父なる神の御心を100%体現された救い主イエスご自身そのものが「信仰」のかたちであり、それが「真実」であるということなのです。
 
つまり、信仰の実体であるイエスが私たちに言葉と行いで向かわれているからこそ、そのイエスに私たちは視線を向け、身体を向けて歩むことができるのです。見えないかたちを追い求めて空しい思いをするのではなく、私たちのほうへ向かい来る真実と平和が確かにあるということを私たちが受け取り、イエスとともに歩むことが大いに許されているのだと私は考えています。
 
のちに使徒パウロはそのことを「あらゆる人知を超えた神の平和」と表現しました。真実とか平和というものが、私たちの限界ある範囲のなかで考えられるのではなく、私利私欲から動くのでもなく、私たちの想像もしない仕方で神がご自身の真実(信仰という意味も含まれることを考えるならば「信実」という言葉でも良いかもしれません)を救い主イエスを通して、聖霊様のお働きをもって私たちの心と考えを支配されるときに、そこには平和の種が宿され育まれていくことを私たちは受け取って、今日という一日を過ごしてまいりたいと願います。
 
皆さんの一日に、平和の主がともにありますように。お祈りします。

04/12/2024

2024.12.4(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書48章18節
私の戒めに耳を傾けさえすれば
あなたの平和は川のようになり
あなたの正義は海の波のようになるであろうに。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヤコブの手紙3章18節
義の実は、平和をもたらす人たちによって平和のうちに蒔かれます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するワードは「平和」という言葉でした。そのことについて黙想したいと思います。
 
イエスがお生まれになられたとき、その知らせを天使たちの賛美によって受けた羊飼いたちが耳にしたのは「いと高き所には栄光、神にあれ 地には平和、御心に適う人にあれ。」という言葉でした。この地上に平和が神の御心に適う人たちとともにありますように。その言葉が羊飼いを通して後の人々に知らされ、今日私たちはその言葉を聖書から聴くことができています。
 
平和は神の御心に適った人々のもとに与えらえるというのです。私はこの言葉を原理主義のようなとらえ方として読むことの危険性を思うのです。なぜならば、そのような原理主義的な思考こそ、平和とは逆行する世界をつくりあげてしまっていると感じるからです。ですから神の御心に適った人々というのは決して、私たち自身を「特別視」するものではないのだと私は思うのです。特別視することでおのずと優劣というものを付けて自分自身を祭り上げる結果になるというのが、私たち人間の悲しい性なのです。
 
そうではなくて、神の御心に適うというのは他人と比較しなくても自分自身がまず神の御前に誠実に生きることなのだと思います。その誠実さとは、神の御心を自分自身の生き方とするべく聖書の言葉に聴き、聖霊様の助けによって黙想し祈りつつ神との対話を地道に営み続けることなのでしょう。そのような生き方を神は私たちに促し導いてくださるなかで、私自身の心に神の平和が宿り、その平和が分かち合われるところにこそ「地には平和」という言葉が神によって実現していくことを実感できるのだと私は信じたいのです。
 
神が平和をこの地上にもたらされるために無くてはならないものこそ神の義、つまり神が正しい御方であるという事実です。そして今日の新約聖書の言葉にもあるように、神の義によって生み出される実こそ平和であるということなのだと私は思います。それを今日の旧約聖書では「私の戒め」、つまり神御自身が私たちに与えられる命令を通して、神が義なる御方であることが明らかにされるというのです。
 
自分の正しさで生きるのではなく、神の正しさによって生かされることの幸い。この幸いがすなわち平和の礎であることを想いつつ、今日の一日もまた過ごしてまいりたいと心から願います。どうぞ一切に、神の平和が義とともに豊かに私たちの心に宿りますように。心からお祈りします。

03/12/2024

2024.12.3(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
サムエル記上10章6節
主の霊があなたに激しく降り、彼らと一緒に預言して、あなたは別人のようになります。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙8章16節
この霊こそが、私たちが神の子どもであることを、私たちの霊と一緒に証ししてくださいます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するワードは「霊」という言葉でした。そのことについて黙想したいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、イスラエルの指導者であったサムエルがやがて後継者となるサウルに油を注いだときのシーンです。サムエルは士師(裁き人)として、イスラエルの民たちに間で起きたあらゆるトラブルの解決にあたっていましたが、やがて民たちのあいだから自分たちを治める王を求める声があがり、サムエルは王としてふさわしい人材を探し求めました。
 
しかし、サムエルは自分の意思でそうしたのではありませんでした。あくまで神の指示にしたがい、神の御心に聴きつつ最終的にサウルという人物にいたったのでした。サムエルがサウルに対して語った言葉が今日の旧約聖書の言葉です。サウルが王になることにより、神である主ヤハウェの霊がサウルとともにあり、サウルは霊の働きによって神とともに王としての働きがなされるということをサムエルはサウルに伝えました。
 
つまり、サウルが王としてふさわしい人物として見い出したのは神御自身であり、そのふさわしさがふさわしさとして用いられ続けていくためには、油が注がれるという儀式だけではなく、それ以上に神が送り注がれる「霊」の働きなしにはありえないということをも意味しました。ですから、サウルにとって必要なのは神の霊によって生きることでした。具体的には、神の霊に込められた神の思いや願いというものをサウルが受け取って生きる事だったのです。
 
しかし、サウルは最終的には神の霊が指し示す生き方をしませんでした。王という目に見える権力をふりかざして王という役職に依存して生きました。その結果、神の霊の存在をないがしろにして自分の思い通りに振舞った結果、悲惨な結末を迎えることになりました。サムエルがサウルに伝えた今日の旧約聖書の言葉が彼の心の中に深く染み込んでいれば、こういうことにはならなかったでしょう。
 
しかし、これは私たち人間ならば誰でも経験することなのかもしれません。聖霊の導きというものを私たちは得ながらも、結局のところ神の御心というものを十分に受け取ることもできずに、自分自身の願望を神の御心と思い込んで、またすり替えて生きてしまっているのかもしれません。だからこそ私たちは「聖霊信仰」とは何なのかを、神の与えてくださった言葉から、それを理解するために神が与えてくださる聖霊の助けによって、自分自身の足元を見つめながら生きていく必要があるということを、今日の御言葉を通して受け止めました。
 
父なる神と子なるキリストが、私たちのために与えてくださった聖霊の助けというものを今日も十分にいただきながら、神の子として生きることができますように。皆さんの一日にモ神の守りと平安が豊かにありますように。心からお祈りします。

02/12/2024

2024.12.2(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書26章6節
主をどこまでも信頼せよ。
主こそとこしえの岩。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書6章47~48節
私のもとに来て、私の言葉を聞いて行う者が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて家を建てる人に似ている。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するワードは「岩」という言葉でした。そのことについて黙想したいと思います。
 
今日の旧約聖書では、神である主ヤハウェこそ私たちにとっての岩であることに触れ、新約聖書ではイエスの言葉をもって生きる人が岩の上に建てられた家のようであると述べられています。岩盤に到達するほどに堅固な土台こそ私たちが十分に信頼できる。それが、私たちの神の存在であり、その体現である救い主イエスなのだと私たちに伝えているのです。
 
私たちが立つために、今日も私たちを支えてくださる神がともにおられる。私たちが自分自身で強固な土台をつくりあげているのではなく、あくまで神が私たちの人生のためにご自分の力と知恵をもって、私たちのために働いてくださるというのです。この神の働きに、私たち一人ひとりが心から信頼の思いをもって、今日も神の言葉に聴くことができている。その言葉を握りしめて、今日という一日を歩むことが大いに許されているのです。
 
今日も私たちの生活に、家を流してしまうほどの洪水が襲うからもしれません。家が崩れてしまうほどの激震が私たちの安心を覆してしまうかもしれません。しかしそれでも、神が私たちの土台であることには何の変わりもありません。それに耐えうるだけの助けを神が与えてくださる。そんな思いをもって、今日も生きてまいりたいと思います。
 
どうか皆さんの一日にも、土台である神の守りが豊かにありますように。お祈りします。

01/12/2024

2024.12.1(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編119編5節
私の道が確かでありますように
あなたの掟を守るために。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書3章2節
悔い改めよ。天の国は近づいた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
いよいよ救い主イエスの御降誕を待ち望むアドヴェント(待降節)が始まりました。救い主が私たちのもとにやって来られることの意味というものも、今年もこの4週間あまりの日々のなかでじっくりと考えてまいりたいと思います。クリスマスの祝いだけに終始するのではなく「ここから救いの物語が始まった」その最初のできごとに過ぎないことを思いにとどめながら、しかしクリスマスの喜びというものがあふれるようなその備えの期節として過ごしていきたいものです。
 
さて、今日のローズンゲンに示された聖書の言葉のうち、歌い手が「あなたの道を示してください」と神に願っていることと、新約聖書における洗礼者ヨハネの「悔い改めよ」という言葉について注目しました。そのことについて少し触れてみたいと思います。
 
私たちになぜ「悔い改め」という言葉と行為が提示されているのでしょうか。それは神が備えてくださった道を歩むためです。悔い改めという言葉は「向き直す」という基本的な意味が込められていることを、私たちは忘れてはいけないのだと思います。悔いという言葉が、私たちに懺悔というイメージを与えている場合が多いわけです。懺悔自体が決して悪いことではないのですが、懺悔が過剰な自己否定感を生ませてしまうことがあれば、それはそれで問題であると私は思います。悔い改めの言わんとしている中心にあるものは、あくまで神のほうを向き直す、神が提示された道を歩むこと、そして神の思いや願いに自分自身を合わせるべく思い直し、方向転換することに他なりません。その過程のなかで懺悔という行為が存在するのであって、懺悔することが悔い改めのメインではないのです。
 
洗礼者ヨハネが提示した「悔い改めのための洗礼」は、はるか向こうから神の国が放つ光が人々に近づいたことが前提にあって、その光に向かって歩むためのプロセスなのだと私は考えています。詩編における歌い手が「あなたの掟を守るために」道を示してくださいと願ったのも、すべては神の国から放たれる光を目当てにして人生の日々を歩むためです。罪の呵責に苛まれながら、自己を否定して生きることではなく、神の光によって私たちが喜び、神に大切にされていることの受容ゆえに、私たちは神によって自己肯定感が養われていく。これこそ、悔い改めが表す実なのではないだろうか。そう思えたのです。
 
今日、世界中でおこなわれる主の日の祝祭のすべてが、そのような光に照らされる幸いを味わう時となりますように。皆さんのために、そして自分自身のためにも祈りつつ、過ごしてまいりたいと思います。