くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
サムエル記下12章9節
なぜ、主の言葉を侮り、私の意に背くことをしたのか。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙7章24~25節
私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか。私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝します。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
******
皆さん、おはようございます。
今週も最終日を迎えました。この一週間、どのような毎日を過ごすことができたでしょうか。そんな日々の歩みを振り返りながら、今日の御言葉に耳と心を傾けつつ、ローズンゲンに示された聖句に聴きたいと思います。
今日の旧約聖書の言葉は、ダビデ王が既婚者の女性を妊娠させてそのことをうやむやにするために、女性の夫を王の権力を用いて戦場の最前線へ送って戦死させ、未亡人となった女性を自分の妻としたところに及んだ神の言葉です。バト・シェバの夫ウリヤはそのようなダビデの身勝手な行為によって命を落としたのでした。
ダビデのそのような行為に神が黙っているはずがありません。神は預言者ナタンを通してダビデに叱責の言葉を与えます。それが今日の旧約聖書の言葉です。王にとって果たさなければならない務めとは神が与えられた命を尊ぶことです。神がそのような意志をお持ちなのに、ダビデは自分自身の欲望によって神の思いをいとも簡単に踏みにじったのでした。本来ダビデが王としてイスラエルを統治できるのも、そのイスラエルが繁栄に満ちたのも神がダビデにご自分の願いを託したからでした。ですからダビデに求められていたのは神の御前にただ謙虚に生きることだったのです。
しかし、ダビデは自分の王としての立場をあたかも自分自身の努力や能力の結果のように思ってしまったのでしょう。そのような勘違いから来る傲慢さが、結果としてウリヤの命を間接的に奪いました。そしてこの後、ダビデの家族も災いに遭うことになります。実に多くの命が犠牲にされたのでした。神が命を尊ぶということの意味を、ダビデは痛感しなければならなくなったのでした。
私は自分自身に当ててこの言葉を振り返りました。自分にとって傲慢さとは何か。どういうところからそのような傲慢さが起きるのかということをです。それに気づけないとしたら、それはなんと惨めなことだろうか。今日の新約聖書で手紙の筆者であるパウロが自分自身を振り返って自分の情けなさと惨めさを実感したように、私自身も神に生かされていることに気付けない場面が自分の生活の各所にあることを改めて思わされるのです。
そのために、私たち人間のかたちをとって私たちとともに生きられた救い主イエスが神によって与えられたことは、本当に私たちにとっての慰めであり喜びなのだと私はあらためて思わされたのです。イエスの生き方というものを通して、私たちがいかに自分自身の傲慢から脱却しようと気づかされたときにこそ、多くの喜びが神によって与えられる。この経験こそ大切なのだと私は思わずにはいられないのです。
クリスマスを間近に迎えるなかにあって、なぜ私たちは喜べるのかという原点に帰って、明日への備えの一日を過ごしていきたいと思いました。クリスマスが単なる祭りではなくて、悲惨な状況にある私たちに救いの道を提示してくださる神が、私たちがそれに気づけるようにイエスが目に見える形で与えられたことが、今日の私を生きる励みとなることが出来ますように祈ります。皆さんもどうぞ救い主イエスにあって、素敵な一日を送られますように祈ります。
0 件のコメント:
コメントを投稿