くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編5編12節
あなたのもとに逃れるすべての者が喜びますように。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二6章4,10節
あらゆる場合に自分を神に仕える者として推薦しているのです。貧しいようでいて、多くの人を富ませ、何も持たないようでいて、すべてのものを所有しています。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖書の言葉を通して、今日は「逃れる」ということについて、黙想をしてみたいと思いました。
私たちが逃れる、もしくは緊急に避難をしなければならない状況になったときに、自分の持っているものや大切にしているものを犠牲にしなければならないこともあるかもしれません。そして、大切に思えば思うほど、未練のようなものが私たちの心中を駆け巡ることもあります。その結果、逃げることに対して臆病になってしまったりするのです。そして逃げられない環境のなかで、さらに多くの犠牲を払わなければならないこともあるかもしれません。
ロトの妻がそうでした。アブラハムのいとこであったロトの妻は裕福な生活を捨てなければなりませんでした。ソドムとゴモラの街が滅亡してしまうからです。神は彼らが逃げるに際して、決して振り返ってはいけないことを命じられました。しかし、ロトの妻は今まで豊かに暮らしていたその生活に自分の視線を向けてしまいました。彼女が振り返った時に、彼女は塩の柱になってしまったというあの話です。
私はいろいろ考えさせられました。時には捨てなければならないということをです。逃げるということの大切さをです。もちろん、立場上責任をもってそこに取り組もうとする時に、そう簡単に捨てられず、また逃げたくなるようなことがあっても逃げられない現実というものがあることは確かです。しかし、そのことで自分自身を見失ってしまうようなことがないだろうか、それよりも神との関係性というものをないがしろにしてまでも、自分の持ち物というものに固執してしまっている自分自身はないだろうか。そんなことを思ったのです。
今日の旧約聖書の言葉は、逃げるところにこそ幸いがあるということを私たちに伝えるものでした。逃げる先は神です。その神に私たちは現実のしがらみのなかから宝を見つけ出すようにその先へ駆け込むことができるのだと。そんなイメージが心のなかにわいてくるのです。そして、そのような絡みつくさまざまなものから解放されるときに体験できる神の喜びというものに、私も是非あずかりたいと思ったのです。
一見逃げることとか捨てることは、何かを失うというイメージを起こすかもしれませんが、かえって富む結果となることを心の希望として、今日の一日を歩んでまいりたいと願います。皆さんの一日にも、神の喜びがともにありますように。心からお祈りします。
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