くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エゼキエル書34章30節
私が主、彼らと共にいる彼らの神であり、彼らがわが民イスラエルの家であることを、彼らは知るようになる――主なる神の仰せ。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書2章11節
今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
『日々の聖句』の原著である『Die Losungen』には、今日12月26日は「第2クリスマス」と記載されています(日本語版日々の聖句では『降誕祭次日』)。クリスマスの余韻に浸るということを考えた信仰の先達によるひとつの工夫なのでしょう。そのような理由で、今日の旧約聖書に基づいて選ばれた新約聖書の言葉は、羊飼いのもとに天使が現れて告知したクリスマスの夜のできごとの箇所でした。
しかし、今日私は旧約聖書と新約聖書それぞれの言葉をながめていて、どちらにも「主」という日本語が用いられていることに気付くわけですが、同じ「主」という言葉が用いられていても、旧約聖書で用いられている「主」は言語であるヘブライ語では神の固有名である「ヤハウェ(יְהוָ֛ה)」の訳語です。なぜ「主」という文字が使われるようになったかについては今日は言及しませんが、私は神の名を用いることについていつも思わされていることがあります。
私が10代から20代にかけて「エホバの証人」であったことは、多くの方がご存知のことと思います。この団体は「神の名前は『エホバ』である」ことを強調し、神の名前を発音し用いることこそ大切であることを強調します。そして「主」という言葉に置き換えて名前を用いないキリスト教会を痛烈に批判することで、自分たちのアイデンティティーを保っているところがあったりします。
私はそのような環境で育ったわけですが、その後エホバの証人をやめてキリスト教会で信仰生活を送るようになり、今牧師として日々を過ごしているなかで感じることがあります。私がエホバの証人時代、神の名はエホバだということを教えられ、その名前を発音することの大切さはこれまでもかということを叩きこまれたわけですが、その名前にはどのような「意味」があり、その意味が私にとってどのような影響や祝福があるのだろうかということについては、ほぼほぼ教えられていなかったような気がします。「私はある(いる)」という神の名前の意味は聖書に書いてあるわけですから頭ではわかっているわけですが、心に落ちていなかったと振り返るのです。
そして今、キリスト教会にいる者として、ではヤハウェという神の名前の意味というものに、私たちはどれだけのリアリティを持っているだろうかと問われれば、実はエホバの証人のそれとさほど変わらないのではないかと、私は自戒を込めて思わされるのです。今日のエゼキエル書の一文を読んで、私たちは「主」という言葉を目にしたときに、それが単なる私の「あるじ」くらいに思ってはいないだろうか、と思ったりするのです(もちろん、あるじと思うこと自体は何も悪いわけではないのですが・・・)。
今日の旧約聖書の言葉には、「私が主、彼らと共にいる彼らの神であり」とあります。ヤハウェという私たちの神が、私たちとともにおられる(いる)方であり、私たちの神となってくださる(なる)方なのだと。つまり、私が神である主ヤハウェという存在は、ただ突っ立っているだけの方などではなく、存在の全実存をかけて私たちのために生きて働いてくださる、そして常に私たちにともなってくださる方なのだという深い意味が、「主(ヤハウェ)」という名前にかかっているのだと。この意味を教会でどれだけ共有されているのかと私は思わされるのです。
このイメージこそ、クリスマスを祝う根拠となるのだと私は思うのです。もちろんクリスマスが多くの喜びを与えるのはいいことなのですが、なぜ私たちに喜びを与えるのかということを問わずして、クリスマスに込められた本質を問うことはできないだろうと私は思います。神の名前に込められた御心の実現こそ、イエスがご自分の生涯のなかで果たされるひとつひとつのできごとなのだと。だからこそ、クリスマスがそのスタート地点であることを心に置きつつ、今日の一日もまた過ごしていきたいと願わされました。
皆さんにとってもこの一日が、神である主ヤハウェによる祝福が豊かにありますことをお祈りします。インフルエンザやコロナウイルス感染が流行っていますので、どうぞくれぐれもご自愛ください。
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