17/12/2024

2024.12.17(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編94編15節
裁きは義に帰り
心のまっすぐな者は皆、それに従う。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書18章7~8節
神は、昼も夜も叫び求める選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでも放っておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通する言葉は「裁き」でした。そのことを踏まえて黙想したいと思いました。
 
今日の旧約聖書の言葉である詩編94編15節で歌われている「裁きは義に帰る」という言葉ですが、ここで言う裁きは原語(ヘブライ語)では「ミシュパート〔מִשְׁפָט〕」という語が用いられており、義は「ツェデク〔צֶדֶק〕」という語が用いられています。どちらも旧約聖書では神のご性質を表す大変重要な言葉としてしばしば用いられているものです。
 
ミシュパートはここでは「裁き」という意味としても用いられていますが、多くは「公正」という日本語にも訳することのできる語です。また「判断」という意味も含まれています。ですから、神が執行される裁きとはもちろん断罪するといった意味でも用いられると思いますが、その根源を見れば神の正しさ(ツェデク)に基づいて「公正な判断(ミシュパート)がなされる」と解することができると私は思います。つまり「裁きは義に帰る」という聖書の言葉は、私たち人間に対して公正な判断がなされる神の正しさが私たちとともにあるのだということを想い起こすものとなるということです。
 
そのことを踏まえると、今日の新約聖書の言葉で取り上げられているイエスの言葉は、そもそものテーマは「絶えず祈るべきであり、落胆してはならないこと」(18章1節)を示すためのたとえ話として語られているものであることがわかります。神の目から見て到底誠実には見えない裁判官ですら、切願する女性の訴えにいやいやながらも聴こうとする態度を引き合いに出して、不誠実な裁判官ですらそうなのだから正しさで満ちあふれている神ならば、私たちの訴えに満ちた祈りの言葉に必ず耳を傾け、ご自分の判断によって御心を執行されるのだという内容のたとえ話なのです。
 
ここで改めて思わされます。私たちが日々生きるなかで常に求められている「判断と決断」は、何によってなされることが大切なのでしょうか。それは神のミシュパートとツェデク、つまり、私たちをあくまで公正に扱おうとする正しさによってです。裁きという言葉には「悪いことをしたら処罰する」という意味だけでは決して語れないものがある。その根源にある神の深い思いというものを私たちは今日の言葉から知りたいと思うのです。神は正しい御方である。そのことに希望を抱きつつ今日も歩むことができますように。皆さんの主にある平安を心からお祈りします。

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