くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書32章17節
ああ、主なる神よ、あなたは大いなる力を振るい、腕を伸ばして天と地を造られました。あなたにできないことは何一つありません。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書3章16節
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して私が黙想したいと思ったのは「神の御力」についてです。そのことについて綴ってみたいと思います。
今日の旧約聖書の言葉は、天地万物を創造された神の力について述べるものでした。私たちはその力についてどのようにとらえ、考えることができるのでしょうか。何かをつくりあげる力というものに、私たちは強さのようなものを感じるのではないでしょうか。そしてそのような神の力強さによって、私たちもまたつくられて、その人生が導かれているというイメージを抱くことができると思うのです。
しかし、今日の新約聖書の言葉は神の力が別な意味で語られているのは、大変興味深いことと言えるでしょう。神の力は私たちの命が救われるために、ご自分の独り子を地に降されることによって示されたことが記されているのです。実はこの神の力は、強さどころか弱さが際立っているようにも見えるのです。天使たちの賛美が暗闇を照らしたとはいえ、家畜小屋でひっそりとお生まれになられたイエスは、決して救い主とされる者の誕生には似つかわしいものではありませんでした。弱く小さくされたなかで、無力とも思える赤子が生まれたのでした。
そのイエスが十字架にかかられて死なれるときも、そこに力強さのようなものを見い出すことはとても難しいのです。民衆から見捨てられ、神からも見放された状況のもとで、孤独と弱さのなかで十字架の苦痛に耐えられたイエスがおられました。つまり、イエスという人の生涯における力強さには、どんなときも「弱さ」というものを兼ね備えながら私たちにそのことが示され続けられたと言っても過言ではないのです。
しかし、その弱さこそ神の力強さなのだと私は受け止めたいと思いました。後に使徒パウロは「弱いときにこそ強い」(コリントの信徒への手紙二12章10節)と手紙に書きました。つまり、それはパウロ自身の生き方であったのですが、それは神の真の力強さというものがどこにあるのかということを尋ね求めた末での、パウロ自身の結論だったのでしょう。どんなに弱くされても、万物を造られる神の強さと、すべての弱さというものを甘受された神の逆説的な強さ。この強さに今日も被造物である私たちひとりひとりが生かされていることを胸にして生きていきたい。そのように思わされ願わされました。
どうか神である主ヤハウェが、今日も皆さんの一切にご自分の力を示してくださいますように。お祈りします。
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