01/12/2024

2024.12.1(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編119編5節
私の道が確かでありますように
あなたの掟を守るために。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書3章2節
悔い改めよ。天の国は近づいた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
いよいよ救い主イエスの御降誕を待ち望むアドヴェント(待降節)が始まりました。救い主が私たちのもとにやって来られることの意味というものも、今年もこの4週間あまりの日々のなかでじっくりと考えてまいりたいと思います。クリスマスの祝いだけに終始するのではなく「ここから救いの物語が始まった」その最初のできごとに過ぎないことを思いにとどめながら、しかしクリスマスの喜びというものがあふれるようなその備えの期節として過ごしていきたいものです。
 
さて、今日のローズンゲンに示された聖書の言葉のうち、歌い手が「あなたの道を示してください」と神に願っていることと、新約聖書における洗礼者ヨハネの「悔い改めよ」という言葉について注目しました。そのことについて少し触れてみたいと思います。
 
私たちになぜ「悔い改め」という言葉と行為が提示されているのでしょうか。それは神が備えてくださった道を歩むためです。悔い改めという言葉は「向き直す」という基本的な意味が込められていることを、私たちは忘れてはいけないのだと思います。悔いという言葉が、私たちに懺悔というイメージを与えている場合が多いわけです。懺悔自体が決して悪いことではないのですが、懺悔が過剰な自己否定感を生ませてしまうことがあれば、それはそれで問題であると私は思います。悔い改めの言わんとしている中心にあるものは、あくまで神のほうを向き直す、神が提示された道を歩むこと、そして神の思いや願いに自分自身を合わせるべく思い直し、方向転換することに他なりません。その過程のなかで懺悔という行為が存在するのであって、懺悔することが悔い改めのメインではないのです。
 
洗礼者ヨハネが提示した「悔い改めのための洗礼」は、はるか向こうから神の国が放つ光が人々に近づいたことが前提にあって、その光に向かって歩むためのプロセスなのだと私は考えています。詩編における歌い手が「あなたの掟を守るために」道を示してくださいと願ったのも、すべては神の国から放たれる光を目当てにして人生の日々を歩むためです。罪の呵責に苛まれながら、自己を否定して生きることではなく、神の光によって私たちが喜び、神に大切にされていることの受容ゆえに、私たちは神によって自己肯定感が養われていく。これこそ、悔い改めが表す実なのではないだろうか。そう思えたのです。
 
今日、世界中でおこなわれる主の日の祝祭のすべてが、そのような光に照らされる幸いを味わう時となりますように。皆さんのために、そして自分自身のためにも祈りつつ、過ごしてまいりたいと思います。

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