27/12/2024

2024.12.27(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編98編3節
遠く地の果てまで
すべてのものが我らの神の救いを見た。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テトスへの手紙2章13節
また、幸いなる希望、すなわち大いなる神であり、私たちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句は「救い」が共通した言葉として取り上げられています。私たちにとって救いとはなんだろうか。そんなことを考えながら、今日の聖書の言葉をいただきたいと思いました。
 
先日、ある編集者の方と話していたときのこと、あらためて救いとはいったい何だろうねということが話題となりました。私たちキリスト教においては、イエスが私にとって「いのちの救い主」であることを受け入れることによって、救いというものを明らかにし続けてきた歴史があります。私のいのちを自分の命を賭してまでも大切に守り続けてくださる方がともにおられる。私は究極的なものから守られているのだということで生まれる安心感が、私たちにとっての救いなのだと。
 
しかしどうでしょう。私はあえて自己批判的にこのことをあらためて考えてみたいと思うのですが、果たして私たちがどれだけそのことを自分自身が生きる根拠として真剣にとらえているだろうかと。私が生きるなかで起きるさまざまな出来事に救い主が関わってくださっていることを、どれだけ自分自身が生きる堅固な柱としているだろうかということを。そんなことを教会は本当に大切にしているだろうかということを。そんな問いが私に突き刺さって来るのです。
 
目に見えない救い主があなたを救ってくれますよなんて言葉は毒にも薬にもならない、単なる気休めの言葉に過ぎないんだ。私が欲しいのはもっと具体的な助けー衣食住やそれを備えるためのお金、それを保たせるための健康なんだー。もっと自分の願望をかなえさせてくれるための周囲の人々の助けなんだ。そんな声が響いてくるのもまた確かなのです。
 
そういった現実のなかにあっても、しかしイエスが私にとっての救い主なのだということにリアリティを抱きながら生きることの幸いというものを、私はより実感していきたいし、その感動をひとりでも多くの方々と分かち合いたいし、そのために神が全身全霊をもって働きかけてくださっているということが、私たちにとっての救いに他ならないんだということを、クリスマスの余韻のなかで感じ取っていきたいのです。クリスマスが喧噪で終わるのではなく、ここから救いの物語が始まったのだということを心にとどめつつ。。
 
今日の一日が、そのような祝福に包まれた時となりますように。お祈りします。

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