08/12/2024

2024.12.8(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編106編6節
私たちは先祖と共に罪を犯し
過ちを犯し、悪を行った。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙一3章28節
私たちは、人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日(12月7日)の黙想は私の都合でお届けすることができませんでしたが、とても深く考えさせられる聖句でしたので、時間のあるときに投稿したいと思います。どうぞよろしくお願いします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句のうち、今日は新約聖書・ローマの信徒への手紙の一節から特に黙想を得たいと思いました。私たちが「義」とされるのは「律法の行い」によってではなく「信仰」によってである、という聖書の言葉です。特にプロテスタント教会が大切にしてきた「信仰義認」という考え方は、この聖句(他にもありますが)に基づいていると言えるでしょう。
 
ただ、この信仰義認という考え方も場合によっては誤解して受け入れてしまうのではないかと私は思うのです。どういうことかというと、私たちが義とされるというのは、私たちそのものが正しい人間に変化するという意味ではなくて、正しい御方である神が私たちとともにいてくださり、私たちの生活と人生をご自分の価値観で支えてくださることで、私たちは「神の正しさ」によって生かされていくということを意味しているとわつぃは考えます。
 
ですから、私たちが正しいとされるのは「律法の行い」からではないというのは、私たちが自分「だけ」の努力や道徳観念で正しい者となるのではないということを示していると考えれば、唯一正しい御方である神によってこそ私たちが生かされていくのだということが連動し、すっきりとするのだと私は思います。
 
そう考えれば「信仰によって」私たちが義とされるということもまた、受け止め方には注意したい言葉なのだと思います。つまり、私たちの信仰生活というものが、知らず知らずの間に「律法化」してしまうのではないだろうか、ということも考えるのです。つまり、ここで言う信仰とは私たちの努力や修業で勝ち取るものではないということです。そうではなくて神から賜るものであるということです。信仰とは得るものではなくいただくものなのです。
 
信仰とは、「望んでいる事柄の実質であって、見えないものを確証するもの」(ヘブライ人への手紙11章1節)です。その実質となり確証となったのが、救い主イエスに他なりません。つまり、信仰の実質であるイエスが私たちに与えられて、そのイエスが救いというものを確証してくださった。信仰によって義とされるというのは、そのようなイエスが与えられたということへの気づきであり、その気づきが神とともに生きるという私たちの言動へと発展していくのでしょう。
 
今日から新しい一週間が始まりました。どうぞ一切に、神が、そしてイエスがご自分の正しさをもって私たちに臨んでくださいますように。お祈りします。

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