くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ヨブ記5章11節
神は低い者を高く上げ
嘆く者を引き上げて救う。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一1章27節
神は強い者を恥じ入らせるために、世の弱い者を選ばれました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私は「低き者に視線を注がれる神」という言葉が思いに浮かびました。そのことをつづりたいと思います。
弱い者とは誰でしょうか。また、強い者とは誰のことなのでしょうか。私自身のことを振り返れば、時には弱者にもなるだろうし、強者にもなるのだと思います。つまり、相手が誰になるかでその位置というものは変幻自在に変わるのだと私は考えています。
私たちはどうしても自分の立ち位置を確認するために、人と比較することがあります。そのことがとても分かりやすいからです。自分より弱く、見劣りし、かわいそうだと思える人がいたとします。そういう方々に手を差し伸べる事自体全然悪いことではありませんし、むしろ推奨されていることでもあったりします。しかし、私たちはそういう人に対して、なぜか強者になってしまうということがあるのです。すぐに見返りを求めます。自分の思い通りにならなければ、弱者に対して悪感情を抱くこともあるかもしれません。恩着せがましい態度を表してしまうこともあるでしょう。そういう時に、私たちは明らかに強者になってしまうのです。
だからこそ、私たちは誰の前では弱者なのかということを、いつも心に刻んでおく必要があるのでしょう。私たちは、神の御前ではいつも弱者なのです。神がいなくても生きていけると豪語しながら、私たちは大なり小なり隣人に優劣をつけながら生きようとして自分を高めたり低められたりするので、そのような社会には平安が訪れることがないのだと自戒を込めつつ思わされるのです。
だからこそ、今日の聖句が示すように、ヨブがそうであったように、使徒パウロがそう手紙に書きつづったように、十字架のうえで弱みの極みまで歩まれた救い主イエスのように、自分自身もまた、神の御前に弱さを抱いた人間であることを想うときこそ、神が低きところから救いあげてくださるのだと。自分自身のなかにある強さというものが打ちのめされて、神とともにこの一日も歩むことができるのだということに、心を寄せていきたいと思ったのでした。
神が今日も私たち一日の生活に多分に関わってくださいますように。こうして得られる平安な思いが、私たちの生きる礎となりますように。お祈りします。
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