くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編51編5節
私は自分の背きを知っています。
罪は絶えず私の前にあります。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一1章9節
私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
昨日は多くの教会でクリスマス礼拝を祝われたことと思います。そして明日24日の夜からクリスマスシーズンが始まります。救い主イエスによる物語はクリスマスで終わるのではなくクリスマスから始まります。私が働く仙台宮城野教会でも明日洗礼を受けられる方がおられます。救い主イエスとともに新しい人生の一ページを開くことのできる方に立ち会うことができ、本当に嬉しく思っております。
そんなことを想いながら、今日のローズンゲンに示された聖句に触れました。旧新約聖書に共通するテーマは「罪」という言葉です。救い主イエスは何をどのように救うために私たちのもとへ来られたのでしょうか。私たち人間の罪の状態から救い出すために、神は私たちにイエスを与えてくださいました。イエスとは「主は救い」という意味の名前です。名は体を語る。まさにイエスはそのような務めを私たちに対して実際になされるのです。
罪とは「神に届かない」状態のことを指します。どんなに的に矢をめがけても当たらないのです。神に完全に背を向けて独立独歩の道を歩むことが罪の本質なのですが、たとえ私たちが神に顔を向けようとしても、私たちが認知の歪み、認知のズレによってとんでもない方向へ私たちが突き進んでいってしまうがゆえに、神に届かないことも多々あるのです。これも罪がなせるわざなのです。
そういう時こそ「クセの悪い」ものはないと、私は自戒を込めて思わされるのです。私自身、自分の都合の良いように物事を解釈することがありますが、それが本当に神がお望みのことなのだろうかということへのイメージが足りないときに、経験上いろいろな思い違いや選択の誤りをしてしまうことがあるのです。特に人間関係においては、そのようなミステイクはしょっちゅうあるのです。
そんなときに、神が結び合わせてくださった人と人との関係性というものに対して、私はいかに自分中心に物事を考えているのだろうかと思わされます。相手にへつらったりおもねたりすることもなく、ただ神の思いを謙虚に聴きつつ、自分自身に与えられた道を、神とともに歩んで行きたいと思わされました。
クリスマスを間近に迎える者として、神との関係、イエスとの関係をじっくりと見つめることのできる一日でありますように。神が私に良い気付きを与えてくださいますように。そして、神が救い主を与えてくださったことに喜べる一日でありますように。皆さんの主にある守りと祝福を心からお祈りします。
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