くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編84編3節
私の魂は
生ける神に向かって、身も心も喜び歌います。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書1章21節
私の主のお母様が、私のところに来てくださるとは、何ということでしょう。あなたの挨拶のお声を私が耳にしたとき、胎内の子が喜び躍りました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
この一週間も最終日となりました。おとといの夜から風邪の症状が出てきて、昨日は特に咳がひどく一日マスクをしながら生活をしていました。明日の礼拝までには身体を整えて一日を過ごしたいと思います。風邪がとても流行っているようですから、皆さんもどうぞ御身体に気を付けて明日の主の日を迎えることができますように。お祈りします。
さて、今日のローズンゲンに示された御言葉に触れた時に、正直申し上げるとこの聖句に逆行するような私自身の思いがあったことに気付かされました。体調が悪いせいもあるかもしれませんが、とても喜べるような状況ではありませんでした。ここのところ自分自身の身の回りに起きたいくつかのできごとにショックを覚え、とても落ち込んでいたのです。そんなことにくよくよしている自分自身が情けなく思いつつも、でもそう思うのだからそれを無理に蓋をする必要もない。しかし、喜べない状況に自分の身を置くことがこんなにも辛いことだったということに、改めて気づかされる朝を迎えました。
しかし、そういう時にこそ神が助けてくださるもの。今朝は夜明け前に一回目覚めたのち、祈りながら時を過ごしてもう一度床に就きました。7時頃に一本の電話がありました。電話の主はともに祈り合う年長の大切な友でした。私から何も自分の気持ちなどその方に言っていないのに、その方は私が今まさに直面していることをすべて知っているかのように「心配していたんです」と。
私は不安のなかにあっても天使の告知を前向きに受け止めたマリアが親戚エリサベトを訪問した時に、エリサベトの胎内にいた子ども(洗礼者ヨハネ)が喜び踊ったという今日の新約聖書の言葉に、自分自身の今の姿に素直に重ね合わせることができたのでした。その方との電話は30分くらいにおよびましたが、自分自身の思いを分かってくれる人がいるというだけでとても慰められた気持ちになりましたし、神もこのことをご存知であるということに、しみじみと喜べる、そんな思いにさせられたのでした。
喜びとは、ただ乱痴気騒ぎをすれば良いというものでは決してなく、内面から沸き起こってくるものなのだ。そんなことを体感できたことに喜びをおぼえ、今日与えられた聖句に支えられながら一日を歩みたいと願います。どうぞ皆さんの一日にも、喜びを携えてくださる神である主がともにいてくださいますように。お祈りします。
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