くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
出エジプト記3章6節
モーセは顔を隠した。神を見るのを恐れたからである。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書17章7~8節
イエスは近寄り、彼らに手を触れて言われた。「立ち上がりなさい。恐れることはない。」彼らが目を上げて見ると、イエスのほかには誰もいなかった。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通する言葉は「恐れる」という言葉にあると思います。そのあたりのことをつづってみたいと思います。
日本語で「おそれる」という言葉を、聖書では今日の聖句のような「恐れる」という言葉と「畏れる」という言葉に使い分けています。恐れるとは恐怖の側面が強く、畏れるになると神への畏敬の念といった意味合いで用いられるわけですが、実はこれらの言葉のあいだには意味として明確な違いはないのです。国語辞典でも「おそれる」という言葉のなかに恐れるも畏れるも含まれていますし、聖書原語であるギリシア語でもヘブライ語でも同じ単語が用いられています。つまり、恐怖と畏敬というのは表裏一体の言葉であるということが分かります。また、畏敬という言葉には「信頼」や「服従」という意味も含まれています。
私は、これらの意味を踏まえてこんな風に考えてみました。私たちが最初は神の存在が恐怖に思えるようなことがあったとしても、その神は敬いかしこむにふさわしい存在であることに気付かされて、私たちは神に信頼することもできるし、服従へと導かれるのだと。それが「おそれる」という言葉にすべて包含されているのだと。
エジプトからイスラエルの民を脱出したときの指導者であったモーセがそうでした。彼は自分が同胞から殺されるのを恐れて逃げた後に神に出会いました。柴が燃え続ける不思議な光景のなかで、今日の聖句が物語るように彼は神の存在に恐れて顔を隠します。しかし、その神こそモーセを民たちの指導者に立てて、出エジプトという一大事業の担い手として遣わそうとされるのです。モーセは神に恐怖を感じるのではなく、まさに畏敬の念を抱きつつ、神が信頼してくださっていることに信頼で応え、神へ服従する歩みを始めました。
今日の新約聖書に描かれているのは、イエスの使徒であるペトロたちが変貌したイエスに神が語りかけて、ご自分の子であることを宣言した時に、その不思議な光景に恐怖を抱いたシーンのなかでイエスがペトロたちに語られた言葉です。恐怖におびえる弟子たちにイエスは手を触れられます。その手の温もりが感じられるなかで、恐怖に陥らなくても良いことを彼らに伝えます。恐怖のなかで感じる手の温もりと優しさに満ちあふれた言葉こそ、彼らの思いを和らげるものがあった。まさに私たちにとってイエスとはそういう御方であることを想い起こさせます。
最初は恐怖に感じることがあったとしても、神の言葉と聖霊様の助けによってその恐れは畏敬の念へと変えられていくことで、神との深い信頼関係が築かれるからこそ、私たちは神に服従し、神とともに歩む幸いというものが私の心を満たすのだ。そんなイメージを描きながら、今日も神とともに歩みたいと願わされました。どうか、皆さんの一日にも、そのような神様が豊かに臨んでくださいますように。お祈りします。
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