20/09/2024

2024.9.20(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ヨブ記9章8~9節
神は自ら天を広げ
大海の高波を踏み歩く。
神は大熊座、オリオン座、プレアデス
そして南の星座を造られた。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一8章6節
私たちには、 唯一の父なる神がおられ
万物はこの神から出
私たちもこの神へと向かっています。
また、 唯一の主、イエス・キリストがおられ
万物はこの主によって存在し
私たちもこの主によって存在しています。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日は、黙想を掲載するための時間を取ることができませんでした。早朝から立て続けに5つのメールや電話などの急な仕事に対応しなければならず、そのまま仙台宮城野教会の祈祷会、そして午後の家庭集会へと進んでいきました。こういう忙しい時にこそ、大切にしなければならないことを改めて思わされました。それは何か。神様を自分自身の中心におられることに気付いているか、そこから自分自身の歩みを立てているだろうかという問いと確認です。
 
こういうバタバタしているときに、神を忘れて、神をないがしろにしてしまう自我の強さというものに、あらためて痛感させられます。「忙」という字も「忘」という字も、「心を亡くす」という構成によってつくられている漢字です。自分の心がどこにあるのか、大切なものを亡くさないように、務めたいと思いました。そんななかでも、昨日の教会での祈祷会では、本当に嬉しいできごとがありました。詳細を記すのはここでは控えますが、ああ、明らかに神様は今、ここにおられるのだなという臨在を、心から実感することができたのでした。神がこれからも素晴らしい道を示してくださることを、心から祈り続けたいと思いました。
 
今日のローズンゲンに示された旧約聖書はヨブ記の一節でした。財産も健康も家族も、根こそぎ奪われた信仰者ヨブ。そのヨブが亡くさなかったものとは何か、それは「神が私たちのために、生きて働いておられる」ということでした。今日の聖句には「大熊座・オリオン座・プレアデス」と記されています。日本ではいずれも冬を代表する星座であって、大熊座は「北斗七星」として知られ、プレアデスは「昴(すばる)」として知られているものです。北を向けばそれらの星座が天を輝かせている。これを造られたのは何をかくそう神御自身なのだ。星を通して、ヨブは神の働きを心に刻んで、それを亡くさないようにしたことが窺えます。
 
神の創造の業を通して、そこには救い主イエスがおられ、また神によってかたちづくられた私たちも存在している。星の輝きが私たち一人ひとりに神を想わせるように、私たちの存在もまた、ひとつひとつ振り返るごとに、神がそこにおられることを想えるならば、それはどんなに幸せなことか。私はそのように思いましたし、それが今日という一日を生きる私たちの希望として忘れたくない。そのように思えてならないのです。
 
今日もそんな私たちを神が見守ってくださいますように。皆さんの一日が、神によって豊かにかたちづくられていきますように。お祈りします。

18/09/2024

2024.9.18(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
民数記24章17節
一つの星がヤコブから出て
一つの笏がイスラエルから立ち上がる

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録22章16節
私イエスが天使を送り、諸教会についてこれらのことをあなたがたに証しした。私は、ダビデのひこばえ、その子孫、輝く明けの明星である。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今週の日曜日から昨日火曜日まで、ローズンゲン黙想をお届けすることができず、愛読してくださっている皆さまへは大変申し訳ありませんでした。本日より再開しますので、引き続きのご愛読をよろしくお願いします。
 
先週土曜日(14日)の黙想のなかで、私の歯痛のことについて触れましたが、歯科医院に行き鎮痛剤と抗生剤もらって帰ったあとから、歯痛がますますひどくなり、土曜日の夜は一睡もできませんでした。歯科医師からは「歯根に入れた薬が菌と戦っているので、あと2~3日は炎症が続くと思います」と言われていた通りなのではありますが、あまりにも痛みが激しいので、大変不安な状況のなかで、神様に「痛みを取り除いてください!」と祈りながら、夜を過ごしました。
 
明くる日、礼拝メッセージを何とかこなして、その後休めれば良かったのですが、午後には近隣教会の牧師就任式、それに続いてかねてより準備をしていた「日本基督教団青年大会」が控えていました。これはどうしても休むわけにはいかない。そういう立場にありましたので、鎮痛剤を服用しながら、なんとかそれも乗り越えることができました。
 
そうしているうちに薬が効いたのか、痛みもかなりおさまってきました。医者の言うことは本当だと感心した次第です。まるで医者が予言者のように思えた一瞬でした。昨日は身体もかなり疲れていましたので、仕事をしながらも一日休んでいましたら、今朝は快活に目覚めることができました。あらためて健康の尊さというものをかみしめています。
 
そんな朝を迎えて、今日のローズンゲンに示された聖書のことばに触れましたら、私のちょっとしたことで歯科医師の先生が予言者のように思えたなどということをはるかに超えた、本当の予言者(預言者)のことが記されていたので、驚かされたわけです。
 
夜明けに光る「明けの明星」とは金星のことを指すわけですが、その金星のごとく、イスラエル国民から、笏を持つ王が現れるのだ。この言葉が出たのは、エジプトから脱出してまだ約束の土地にもたどり着いていない旅路の途中で、指導者モーセから語られたものでした。
 
私は思いました。痛みのなかで悶絶していたときに、医者の言うことがどこか半信半疑、信じたいけれど痛みのゆえに十分な確信を持つことが出来ない。そんな時に希望の言葉が何のためらいもなく与えられる。このことが真実であると知るのは、医者のいう通りに痛みが退いた時でした。実際にそのようになった時に、ああ、あの言葉は本当だったのだと喜べる時が来る。私は、はるか昔に語られたモーセの預言の言葉が、ずっと後になってイエス・キリストによって実現したこととなぞらえて、今朝あらためて捉えることができたのでした。
 
今日の新約聖書の言葉である、ヨハネの黙示録の最終部分で、イエス・キリストは私が王であることを告げ、自分は明けの明星であることを人々に、諸教会に知らせました。これから起こることが記されているのが、ヨハネの黙示録の存在意義と目的です。必ず救い主イエスは私たちのもとにやって来られる。いや、すでに私たちとともにいてくださるのだと、私たちはたとえ半信半疑のなかにあったとしても、それを希望の言葉として胸に抱くことができている。そのことに素直に感じ取ることできる朝のひとときでした。感謝なことでした。
 
この希望こそ、今日の一日を生きる柱として主なる神とともに歩むことができますように。皆さんの主にある守りと祝福を、心よりお祈りします。

14/09/2024

2024.9.14(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編94編19節
思い煩いが私の内を占めるときも
あなたの慰めが私の魂に喜びを与える。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書22章42~43節
「父よ、御心なら、この杯を私から取りのけてください。しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください。」すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日は朝から、なかなか日課に取り組むことができませんでした。昨日午前に治療した歯が夜から痛み出して、鎮痛剤を飲みながらやり過ごしていたのですが、朝になって再び痛み出して、その痛みゆえに机に向かうこともままならなくなってしまいました。再び鎮痛剤を服用し、歯科医院に電話をしてこの後に診てもらうことになりましたので、いささかホッとしているのです。それにしても痛みをともなう状況というのは決して楽なものではないと、あらためて実感させられているところでした。
 
そんなときに、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖書の言葉に触れて、これは今の自分のために語られている御言葉なのではないかと思わされたのでした。痛み苦しみにあるときにこそ、神の慰めが私に及ぶのだ。いにしえの詩人はそのように歌っていて、その言葉にただ素直に聴きたいと願う今の私があるのです。
 
しかし、大体痛いときは、その痛みゆえに身も心もいっぱいいっぱいになってしまって、神にそのような願いや思いを持つことすらできないくらいに重く、また辛くなってしまうということも往々にしてあるわけで、痛みにもだえ、ネガティブなことしか考えられなくなってしまう。これもまた事実だなと思ったりもするのです。
 
だから、そういうときだからこそ、私のなかで「その痛みをすべてわかってくださる神がおられる」ということが、どれだけの慰めとなるかということを大切にしたいのです。神に痛みを取り除いてくださいと願ったところで、そう簡単に痛みがなくなるわけでもないでしょう。痛みを取り除くことができるのは、鎮痛剤のおかげであると割り切ることもできるでしょう。しかし、そのことを分かってくださる方が確かに私のそばにおられるのだという思いで、少しでも楽になるのであれば、私はそのことを大切にしたいと心から思うのです。
 
今日の状況からして、そのような思いを聖書の言葉からいただけたことに感謝しつつ、今日の一日を過ごしてまいりたいと思います。どうぞ週の最終日であるこの時が、皆さんにとっても神からの慰めゆえに、力づけられるような一日でありますように。お祈りします。

13/09/2024

2024.9.13(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編17編7節
あなたの慈しみの業を現してください。
攻め来る者から逃れる者を
右の手をもって救われる方。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ペトロの手紙一4章14節
キリストの名のゆえに非難されるなら、あなたがたは幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。

神を信じて生きるがゆえに、立場の狭い思いをする。特に、日本のようにキリスト教が文化の根底に無いところでは、そのような思いにさせられることは、もしかしたら決して珍しいことではない。そのようにお感じになられている方もおられるかもしれません。
 
今日の新約聖書・ペトロの手紙一に記された一節には、「キリストの名のゆえに非難されるなら、あなたがたは幸いです」とあります。キリストの名のゆえに迫害されるとはどういう意味なのか、そのことを考えさせられます。
 
はるか昔、キリシタンの時代にいわゆる幕府が差し出した「踏み絵」を踏むことができなかったがゆえに殉教した人々の話、いわゆる昭和時代の初期から第二次世界大戦の終わりにかけて、政府が看板とした「国家神道」に基づいて、いわゆる天皇よりキリストを崇拝することを明らかにすれば、治安維持法違反で多くのキリスト者たちが投獄されたこと。これらのことも「キリストの名のゆえに迫害された経験」かもしれません。実際に、ペトロの手紙が書かれた頃のクリスチャンたちも、多少なりともローマ帝国による過酷な迫害を味わわなければなりませんでした。
 
しかし、私はそれらの迫害ももちろんそうであることを認めつつも、私たちがなぜキリストの名のゆえに迫害をされることが生じるのか、その根底にある部分に眼を留めたいと思いました。キリストの何を優先し、大切にするのだろうか。私は、キリストが示されたアガペーの愛をいただいた者として、その愛を身に帯びて人や社会に向かおうとした際に、必ずそのことを自分自身の中心とするがために、それに抗する力によって迫害されるのではないか。そのように感じています。
 
つまり、キリストの愛に反抗し、そこに立ち向かうのは人間の自己愛です。キリストをないがしろにして自分を防衛し、保身しようとする自己愛です。イエスの時代に、イエスを憎しと思い、イエスを殺そうとした人々は、神を愛していると言いながら、自己保身にまみれて自己愛を貫こうとした人々でした。その時に、キリストの愛を大切にするがゆえに、迫害を受けることだってあるというのを、イエスご本人が経験し、その記録を私たちに伝えていると言っても良いでしょう。
 
しかし、いかなる自己愛であったとしても、神の愛、キリストの愛に勝るものはありません。神の霊が私たち一人ひとりにおよび、キリストの愛に生きようとする私たちを必ずご自分の慈しみをもって守ってくださると言うのです。キリストの愛に生きるというのは、本当に過酷なものなのかもしれません。しかし、その過酷さで私たちがつぶれてしまうことを、決して神はお許しになりません。そのことが、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句から言えることなのではないか。私はそのように受け入れたいと思ったのです。
 
つらいなかにも、私たちを幸いとしてくださるキリストが、今日も私たちを守り、導いてくださいますように。お祈りします。

12/09/2024

2024.9.12(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編82編3節
苦しむ人や乏しい人を義とせよ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テサロニケの信徒への手紙一3章12節
主があなたがたを、互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ち溢れさせてくださいますように。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示された旧約聖書・詩編82編は、神の私たちに対する「裁きの言葉」として歌われているものです。裁きとは、私たちに懲罰を与えることを目的としているのではなく、私たち一人ひとりを神御自身の正しさをもって、歩むべき道を歩むことができるように導いておられるものです。
 
そのなかで、神は民たちに告げられます。苦痛を得ている者たちや、あらゆるものが奪われ乏しくされている人たちにこそ「義とせよ」と。この義賭せよと言う言葉がどのような意味で用いられているを、振り返ってみたいと思いました。
 
旧約聖書において「義」とは、私たちの内から起こるという種類のものではなく、私たちが努力の結果得るというものでもありません。義とは神にしか持つことのできないものであり、私たちが義とされるときに、それは神と私個人、神と私たちという集団における関係性が充実されていること無しに、私たちのうちに義が宿ることはありえないと考えられてきました。神は正しい御方であり、正しさは神にこそあるのです。
 
つまり、苦しみ、乏しい者たちを「義とせよ」というのは、こういう人たちにこそ、神がご自分の正しさをもって人々とともに歩むという、神御自身の決意表明のようなものとして、私たちは受け入れることができるのです。そう、私たちはそのような神のアプローチを、何のためらいも遠慮もなく、いただくことができるのです。こうして「義とせよ」という神の命令が実現するのです。
 
この「義」は「愛」というかたちをもって私のうちに、私たちのあいだに注がれていく。つまり、神の正しさはあくまで、ご自分が与えた命を尊び、神との関係性において、その命が祝福に満ちあふれることを神は願っておられます。それが「愛」というかたちで私たちに示されたのです。この愛というのもまた、義と同様、神だけがもっているものであって、それが私たち一人ひとりに分け与えられていることを、私たちが大いに受け入れることのできるものであると言えるでしょう。
 
愛にはさまざまなかたちがありますが、神が与えたもうた「アガペー」と言われる愛に生きることが、私たちが神からの祝福をもって生きる大きな根拠となるのだと私は信じたいのです。自分のことは差し置いてでも、私たちの幸せのために自分自身を犠牲にするような愛を、神は私たちに差し出し、そして与えてくださいました。その差し出されたものこそ、救い主イエス・キリストなのだと。
 
私たちはどうしても愛を実践できないことも多々あります。しかし、そのことに落ち込むことなく、また開き直ることもなく、私たちの目前に掲げられたイエス・キリストという看板が、今日もまた私たちを生かしてくださるのだと。そんな思いをもって、新しい一日を過ごすことができますように。私たちのあいだに宿る義と愛が、私たちの生きる柱となりますように。お祈りします。

11/09/2024

2024.9.11(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編51編12節
神よ、私のために清い心を造り
私の内に新しく確かな霊を授けてください。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テモテへの手紙一1章5節
私のこの命令は、清い心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を目標としています。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、こんにちは。
今この黙想を綴っているのは、夕方を迎えようとしている17時前です。今日は早朝から移動をし、取り急ぎしなければいけない作業やオンライン会議を経て、ようやく一段落つきましたので、遅ればせながら、今日の黙想をしたいと思いました。しばしお付き合いくだされば幸いです。
 
今日の新約聖書の言葉は、伝道者パウロから年若い同労者であるテモテへ書き送られた手紙の言葉が選ばれています。そのなかで「私のこの命令は」というひと言がどのような命令だったのか。その前の文章を読めば分かるわけですが、テモテはエフェソで伝道するにあたって「無意味な詮索を引き起こすような」教えであるとか、その教えを導き出すためのさまざまな手段に人々が頼ることのないようにしなさいということを、パウロから命じられていた。指導されていたことが記されています。
 
無意味な詮索。とても興味深い言葉であると私は思いました。聖書では「異なる教え・作り話・きりのない系図」という書かれ方がされているわけですが、私はどのような「素材」かが問題なのではなく、人間は無意味な詮索をするために、身の回りにあるあらゆるものを用いながら意味のない詮索をして、物事の本質というものを複雑化しようとしているのではないか。そのように思えてならないのです。
 
話を複雑化させることによって、本質にあるものを見えなくさせてしまうのは、実に残念なことです。人間はシンプルな物事にあこがれを抱き、そこを目指そうとしながらも、どうしても複雑な方向に自分自身をもっていってしまう。結局答えが見いだせず自分自身のなかだけで考えれば考えるほど、迷走してしまうというわけです。
 
ですから、私たちが意味のない詮索をしなくてもいいように、神は私たちが見つめるものを与えてくださった。それが今日のみ言葉にもあるように「清い心・正しい良心・偽りのない信仰」であり、すなわちイエス・キリストその御方がこのことを体現し、私たちに示してくださったのだと。イエス・キリストを見つめつつ、私たちはイエスが私たちに示してくださったものを喜んで受けとることができるのだと。あえて複雑化する必要はどこにもないのだと私は思えてならないのです。
 
本来シンプルな本質を私たちは複雑化し、それゆえに迷走してしまうというのは、清い心、正しい良心にもとづいた、偽りのない信仰の実体としてのキリストが、私たち一人ひとりに示してくださった「愛」が欠如しているからこそのものなのだと。だから、私たちはイエスの愛を十分にわが身に浸みこんでいくことを拒むことなく、そのことを常に神に対して求め続けて生きたいと願わされます。
 
今日の旧約聖書に示された詩人の祈りは、まさに自分自身が迷走しないで生きていくためにも、神があますところなくイエスの愛を差し出してくださるのだと。私たちは自分自身の知識で混線して見えなくさせてしまうことなく、意味のある生き方を心から望むがゆえの祈りというものをささげたい。いただきたい。そのように思いたいのです。
 
今日も夕方が過ぎ、夜を迎えるなかにあって、私たちは一日を振り返ることと思います。そんななかで、あまりにも複雑な状況のなかに心身を置いたために疲れ果ててしまうならば、神がその疲れを癒してくださいますように。イエスが私たちのために生きて働いてくださっていることを、実体として感じとることができますように。神の祝福と守りを心から祈ります。

10/09/2024

2024.9.10(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編111編1節
ハレルヤ。
私は心を尽くして主に感謝を献げる
正しい人々の集い、会衆の中で。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録19章5節
すべて神の僕たちよ
神を畏れる者たちよ
小さな者も大きな者も
私たちの神をたたえよ。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
昨日から今日にかけて、私が所属する日本基督教団東北教区が主催する「カルト問題研修会」に準備する側として参加しています。仙台におられる弁護士有志のかたがたと共催のかたちで、ジャーナリストの鈴木エイトさんを招いて、多くの学びを受けています。今日は、この問題に携わっている牧師たちとともに、この問題に取り組む教会の姿勢というものについて、意見交換の時を持っています。
 
私は、宗教で傷ついた方々に対して、宗教の役割を担う私たちがこの問題に取り組もうと思った際に、何が本当に必要とされるのかということについて考えさせられていますが、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して思わされたのは「感謝することの幸い」だなと思いました。
 
ありがとうと言われて嫌な思いをする人はいないと思います。それだけ、感謝というのは人の心を豊かにさせるものであると思います。では、私たちは感謝ということを、どれだけ私たちの生きている現場や環境で、大切にしているか、大切にされているだろうかということを、私たちは真摯に考えなければいけないなと思わされたのです。こういうことの欠如が、みせかけの感謝を差し出して、苦しみの渦に巻き込んでしまうようなカルトの体質というものをつくりあげてしまうのだということを想わされたのでした。
 
今日も私たちの生きる世界に、家族に、地域社会に、学校や会社に、そして教会に、ちいさなことでも感謝することであふれる幸いが、神とともにありますように。心から祈ります。

09/09/2024

2024.9.9(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編40編5節
幸いな者
主を頼みとする人

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書1章41節
彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「私たちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
昨日、私の働く仙台宮城野教会は夕礼拝がお休みでした。なぜならば、この日は「エマオ」で夕礼拝が行われるからです。この礼拝には、毎回約20名ほどの方が集います。自分たちの教会を超えて、一つどころに集まった人たちとともに礼拝する喜びを持つことも大切と思い、エマオで夕礼拝が行われるときは、私たちの教会の夕礼拝はお休みして、そちらに合流することにしています。
 
礼拝のメッセージを担当したのは、市内にあるプレイズコミュニティチャーチ(PCC)の阿見高洋牧師でした。前々からお会いしたいと思っていましたので、その念願かなってお会いすることができました。阿見牧師を通して取り次がれた御言葉はヘブライ人への手紙11章。私たちの「故郷」について、とても分かりやすく、心が躍らされるそんなメッセージでした。聖霊の力強い臨在を感じるそんな礼拝でした。
 
今日のローズンゲンに示された聖書の言葉は「出会う喜び」によって幸いな者とさせられることがテーマであると私は受け止めました。イエスが宣教を開始された頃、イエスに出会ったシモン・ペトロとその兄弟アンデレが、イエスとの出会いを心から喜んでいる。ようやく、私たちの王となられる方と出会ったのだ。そんな息づかいが伝わってくるようなアンデレの言葉を思い浮かべるのです。
 
メシア(油注がれた者)とは、王に対する尊称です。王の即位にはその頭上から油が注がれました。私たちが慕うことのできる故郷。その故郷を治めてくれる王がやって来られた。私たちは安心して、その故郷に心を寄せ、出会った王に心から信頼することができるのだと。それは、今日の詩編の言葉にもあるように、私たちが「幸いな人」となることができるように、私たちを見守り、出会わせてくださる神である主がおられるのだというのです。
 
私たちは、日々世の中の雑踏にまみれながらその日を精一杯生きているのではないでしょうか。ときに、そのような環境のなかで生きづらさを感じ、疲れ果ててしまうこともあるでしょう。しかし、そんな私たちを痛みをもって憐れんでくださり、故郷へと招き入れてくださる神がおられる。そのことを心の糧として、今日という一日を歩んでいきたいと願わされました。今週も忙しい日々が待ち受けていますが、どんなときにも望郷の想いを通して祝福を与えてくださる神がさまざまな喜びに出会わせてくださいますように。皆さんのために、そして私自身のためにもお祈りしたいと思います。

08/09/2024

2024.9.8(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編119編66節
優れた分別と知識を私に教えてください。
私はあなたの戒めを信じています。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テモテへの手紙二2章22節
愚かで無知な議論を避けなさい。それが争いの元であることは、あなたも知っているとおりです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
また新しい一週間が始まりました。今週がどのような日々になるか、それを神がどのように導いてくださるか、そのことに期待して、与えられた日々を歩んでまいりたいと思います。
 
さて、ローズンゲンに示された今日の聖書のことばですが、特に新約聖書・テモテへの手紙二で綴られた勧めの言葉は、とても考えさせられるものであると私は感じました。
 
日本人は議論下手あるということを聞いたことがあります。あくまで論を戦わせるのではなく、感情的ないさかいになってしまうというのです。福澤諭吉が幕末に欧米使節団のひとりとしてイギリス議会を視察した時の話です。口角泡飛ばして激しい議論がなされた後に、議員同士でなごやかに食事をしている光景を見て、福澤は大きなショックを受けたと言うのです。彼は、議論することの大切さとその心構えについて、大いに学ばされたことを後に述べています。
 
議論は、感情の押し付けでもなければ、自分の主張をもって相手を屈服させることでもありません。今日の新約聖書のことばに示されているのは、愚かで無知な議論というものが、この時代にも確かにあったということです。ではそれは何か。あくまで対等な立場で、お互いの思考に理解を示しながらも、自分の意見を述べ合うことができない状況のことを指すのかもしれません。その時に根底にあるのが、自分が優位に立とうという意識なのかもしれません。
 
つまり、私はこうとらえたいのです。優位に立つべきなのは誰なのかということを。それは私たちの神に他なりません。だからこそ、私たちの議論には、どうしても神が必要なのです。そうでないと、いとも簡単に優位に立とうとする私たちの姿があるからです。神を真ん中にして、聖書の言葉を介して私たちが議論するならば、議論の後でもお互いの思いを豊かに尊重しあえる、かつて福澤が見た光景のようなものを、私たちもまた共有できるのではないかと思えてならないのです。
 
そのことが、今日の旧約聖書の言葉にもある、神に願い求めた分別と知識なのだと、私は受け止めました。神がつなぎ合わせた人と人とのつながりを、私たちはどうしても亀裂が生じるような状況へと引き込ませてしまうことがあります。そんな時にふと思い起こしたいのです。ここに私たちの神はおられるのだろうか、ということをです。そのために、私自身の言葉というものを振り返りながら、神に分別する思いと、それを理解するための知識を真剣に祈り、求めたいと思えてならないのです。
 
インターネットやSNSが私たちのコミュニケーションツールとなっている現在だからこそ、とても安易な言葉で、不毛な議論を生むことのないようにと、心から願い、神の憐れみを祈り求めつつ、健全な議論ができるようなやりとりというものをしたいと心から願わされました。もちろん、対面におけるコミュニケーションも同様のことです。
 
健全な議論のある所には神の平和が。神をないがしろにして、自分が優位に立とうとする場には無用な争いが。そんなことを胸に刻みつつ、新しい一週間を神の祝福のうちに生きることができますように。心からお祈りします。

07/09/2024

2024.9.7(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
列王記上3章5,9節
主はソロモンに言われた。
「願い事があれば、言いなさい。かなえてあげよう」
ソロモンは言った。
「どうか、この僕に聞き分ける心を与え、あなたの民を治め、善と悪をわきまえることができるようにしてください。」

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書4章8〜10節
悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もし、ひれ伏して私を拝むなら、これを全部与えよう。」すると、イエスは言われた。「退け、サタン
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句のどちらにも言及されているのは「国」です。旧約聖書には、国を治める者として神に願いをささげる王ソロモンのことが、新約聖書には、すべて国を見せつけて自分にひれ伏すように迫る悪魔サタンに対するイエスのことが書かれています。
 
ソロモンにしてもイエスにしても、国家というものに対して、国家に象徴される権威権力というものについて、共通した考え方と受け止め方をしていることが、今日のふたつの聖句からうかがい知ることができます。それはなにか、それら権威権力はそれをたとえ行使する権限を有していたとしても、それは究極的に神のものなのだという意識です。私はあくまでそれを預かっているに過ぎないのだ。だからソロモンは神に願い、イエスは悪魔サタンの提示に断固として拒否することができたのです。
 
一旦権力を握ると、その権力自体がものすごい力を持っているように思うことがあるでしょう。確かに人を動かし、金を動かし、欲をも思い通りに動かすことができるかもしれません。しかし、権力を持ったとて、その権力を行使する人間そのものが強くなったのではありません。ただ、権力という鎧兜かぶとや武器を身にまとったに過ぎないのです。そして、強くなった気分をもって、権力者として振る舞ってしまうのです。この世界と言わんばかりに全世界の権力と引き換えにひれ伏すようにイエスへ迫った悪魔サタンのようにです。
 
しかしイエスは、あくまで権力の源は神ご自身に他ならないというところに立ち、悪魔を退けました。
神無しでは、権威を預かることも権力を用いることもできないのだ。その点で、ソロモン王が神にささげた願いから、私たちは今日を生きるためのメッセージを聞きたいと思います。
 
物事の真偽を聴き分ける心と、善悪をわきまえる思いと行い。これが神の言葉と聖霊の助けによって神によって示されていることを、いかに自分自身が生きるための土台にさせてもらうことができるかで、神に与えられた務めを果たすための、なくてはならない助けになるのだと私は受け止めました。
 
今日も神の言葉が私たちの生きる合言葉となりますように。神の守りと平安をお祈りします。
 

06/09/2024

2024.9.6(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ダニエル書9章18節
私たちが正しいからではなく、あなたの深い憐れみのゆえに、私たちはあなたの前に嘆願を献げるのです。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙2章8~9節
あなたがたは恵みにより、 信仰を通して救われたのです。それは、あなたがたの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、誰も誇ることがないためです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
信仰とは自分の努力によって得るものではなく、イエス・キリストを通して、神によっていただくもの。今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句は、そのことを私たちに伝えているものであると私はあらためて受け取りました。
 
どんな世界でも、私たちは努力というものを大切にします。それは間違いないことです。しかし、同時にどの世界においても、努力するにあたっての「大前提」があることを忘れてはいけないのだと思います。たとえ努力できなかったとしても、私亜たちの価値がおとしめられたり、低くされることは決してないのだということを、今日の聖句は指し示しているのだと、私は強く思わされます。
 
エフェソの信徒への手紙を書いた使徒パウロは、信仰によって私たちは救われたと書きつづっています。この「信仰」という言葉について、私から神に向かう態度のことを信仰と言っているわけではありません。信仰とは、私たちを極みまで愛してくださり、私たちのためにその命を投げうたれ、その命がよみがえることによって、永遠なる神とのつながりを確かなものとしてくださった、イエス御自身の実体と言行による確かな根拠が、私たちひとりひとりに向かい、与えられている。これこそ、信仰の大前提にあるものなのです。
 
ですから、信仰によって救われたという言葉は、私たちの努力の結果を指す言葉ではなく、イエスがキリストとなって私に救いの道を与えてくださった。この道こそ信仰の本質に他なりません。この道があるからこそ、私たちは神の御顔に自分の顔を見合わせながら歩むことが可能となるのです。決して、私たちが悟りを開いて編み出し、見つけ出したものではありません。そうではなく、イエスを通してそういう道が与えられたことに「気づく」ことに他ならないのです。
 
私たちは自分自身の努力や功績を誇ろうとします。これだけやった、これだけのものを修めたことが、私たちの生きるモチベーションとなることがあります。しかし、その努力は自分自身のものではありません。神が道を備え、聖霊を通して私たちに生きる力というものを与えてくださるからこそ、神がくださったギフト(賜物)を用いながら、その道を歩むことができます。仮に、それが「努力」という言葉で表現したにしても、その力も神が私たちが生きるために慰め、励ましているからこそいただけるものであることを、私たちは気付くことができるならば、そこには大きな安定感というものが芽生えてくるのだと私は思うのです。
 
努力も神がおられるからこそ、成し得るものであることを、私たちは今日一日を生きる希望の土台とすることができますように。皆さんが神様の守りと祝福のうちにありますように。お祈りします。

05/09/2024

2024.9.5(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編28編9節
あなたの民を救い
ご自分の民を祝福してください。
とこしえに彼らを養い、担ってください。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書9章36節
(イエスは)群衆が羊飼いのいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
断腸の思いという言葉があります。「帳がちぎれるほどの悲しみ」(広辞苑)という意味で用いられる言葉ですが、今日のローズンゲンに示された新約聖書・マタイによる福音書9章36節で示されているイエスの「深く憐れまれた」という言葉は、まさに「断腸の思い」に相通じるものがあります。他の聖書翻訳では「腸(はらわた)のちぎれる想いに駆られた」(岩波訳)と訳されているくらいです。
 
私たちの感情というものが、身体のどこから起きるものなのか。私などは「心」、つまり心臓を象徴的に取り上げながら、自分自身の感情の動きというものを表現するものだとずっと思ってきましたが、今日の聖書の言葉のように「はらわた」にその想いの源というものを求めることもありますし、最近知ったのは、沖縄では「肝(ちむ)」、つまり肝臓にこそ自分たちの心情の大本があるのだと。こうして考えてみると、いろいろな表現があって面白いなと思わされるわけです。
 
しかし、どれを取っても、私たちの内臓に心情や感情の源を求めているということは、実際にお腹が痛い、肝臓の調子が悪いといった、私たちの誰もが感じる可能性のある「痛み」というものをもって、それくらいの感情を抱くのだということを明らかにしている。イエスが腹がちぎれるくらいに痛みつつ、思いを人々に寄せてくださっていることを改めて思わされます。
 
イエスは、人々が本来養われるべき存在から養われることなく、まるでみなしごのように見捨てられている状況、その状況ゆえに悩み苦しみを抱えた状況のただなかにあることを知って、腸がちぎれるような痛みをもって私たちを見つめてくださっているのだと。私たちはそのような「憐れみ」というものを時に必要とします。私をそのように見つめて欲しいと、周囲に助けを求めることもあるかもしれません。しかし、人間同士で起こるそのような感情は、適切に働くのならばとても良いのかもしれませんが、いつもそのような憐れみをもって自分自身の思いというものが満たされるわけでもありません。期待外れな反応に対して、失望や悲しみを感じることもあるでしょう。イエスの時代に生きた人々は、ことあるごとに周囲の人間に対して、そのような感情をいだいているうちに疲れ果ててしまったのかもしれません。
 
だから、イエスの断腸の思いに通じる憐れみを必要としましたし、私たちがそれを求めるにふさわしい態度を、まずイエスが私たちに抱いてくださった。人間同士で起きる裏切りも失望もなくです。イエスこそ、私たちの魂をご自分の痛みでケアして、養ってくださる方に他ならないのだと、今日の聖書の言葉は私たちに語りかけてくださいます。そのようにして、私たちを祝福へと導くために、今日もご自分の言葉と聖霊の働きをもって私たちを養ってくださる方に希望を抱いて、新しい一日を過ごすことができますように。皆さんの一日のためにお祈りします。

04/09/2024

2024.9.4(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
列王記上19章5,8節
御使いが彼に触れて言った。「起きて食べなさい。」エリヤは起きて食べ、そして飲んだ。その食べ物で力をつけた彼は、四十日四十夜歩き続け、神の山に着いた。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書6章31節
だから、あなたがたは、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い煩ってはならない。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
現実から逃げても逃げても、行くべく道が定まらず、もはや疲れ果ててしまった。今日は、そんな経験をした預言者エリヤの経験が込められた聖書の言葉から、ローズンゲンとして選ばれています。
 
私たちはより良い道を探ろうとして、あらゆる選択肢のなかからベストの道を選び取ろうとします。しかし、不安や恐れに取り囲まれた心がその道を歩もうとする思いを阻もうとします。つまり、私たちの感情が進路の邪魔をするというのです。そして、逃げることにすら疲れ果ててしまうというのです。
 
預言者エリヤはこの時、時の権力者であるアハブ王とその妻イゼベルによって命狙われていました。そのような緊張状態のなかで、エリヤはもはやは先のことを冷静に考える判断を失っていました。自暴自棄になってしまっていたのです。
 
もちろん、エリヤ本人はまさか自分が自暴自棄になっているという意識は無かったことでしょう。そのような時、人間はなかなか冷静にはなれないものです。感情があらゆる思考に勝ってしまうからです。そして、そのことに人間は気付けない。だから現実から逃げ続けて、しまいの果てに疲れ果ててしまうのだと私は思うのです。
 
しかし、そんな人間に、エリヤに、神は落ち着きと活力を与えました。空腹を満たし、ともに行くべき道を歩んでくださる神がおられることをエリヤに気づかせました。命狙われるという状況はなんら変わらない。不安や恐れというものが払拭されないかもしれない。しかし、それでも神は私たちが生きるための方を与え続け、ともに歩んでくださるからこそ、私たちははるか将来のために、その道を歩むことを選び取ることができるのだと。神がおられるのだから。
 
現実のことで悩み過ぎるなと、イエスは自分の話を聞きに来た群衆を前に語られました。悩みすぎると、私たちは孤独になるのです。自分自身の殻に閉じこもってしまうからです。殻に閉じこもった時に、それを破らない限り、次の一手はあり得ないのです。たとえ自力で殻を破ることができなくて、それを神が破ってくださったとしても、感情が許さないのです。暗闇のなかで悶々としている孤独な自分自身のほうが居心地良いと。破ってくれるなと拒む人間の頑固さが、私たちのうちにあるのかもしれません。
 
だからこそ、冷静と活力を与えてくださる神に、自分の全てを任せて歩もうじゃないか。どんなことが私を襲っても、私を支えてご自分の言葉と聖霊の力で栄養をつけてくださる神がすぐそばにいるじゃないか。私は決して孤独ではない。孤独である必要なんかこれっぽっちも無いんだ!
 
今日の一日もそのような神の守りのなかにあることが、私たちの希望でありますように。お祈りします。

03/09/2024

2024.9.3(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編139編5節
(あなたは)前からも後ろからも私を囲み
御手を私の上に置かれる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録17章27〜28節
実際、神は私たち一人一人から遠く離れてはおられません。私たちは神の中に生き、動き、存在しているからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
神の中で私たちは生きている。伝道者パウロは、ギリシャの都アテネにあったアレオパゴスの丘で、その場に居合わせた議論好きな人々を前にして、このように神について語りました。
 
私たちが神の大きな存在のなかで、取り囲まれるように生かされているというイメージは、神を対象化するような世界観では、なかなか出てこないものかもしれません。神の像に向かって拝むようなイメージです。対象が明確にそこにあって、はるかかなたにある神を見る。神聖にして侵さずべからず的な印象こそ、パウロが言わんとしていた「遠い神」のことではないだろうかと私は思うのです。
 
決して私たちから遠く離れたところにおられるのが神ではない。私たちの空間にこそ神はおられるのだ。私はこの感覚こそ「聖霊の働き」に他ならないのだと思うのです。聖霊は、父なる神と子であるキリストの思いがいっぱいに詰まった、私たちを守るために神が遣わしてくださった助け主です。たとえ神が天におられても、私たちのすぐそばに神がおられるのだというイメージは、聖霊の働きなしにはあり得ないのだと。
 
私たちはしばしば、聖霊に対する具体的なイメージがなかなか沸かないという声を聞くことがあります。しかし、聖霊こそ、人間に語りかける父なる神の声を、人間のかたちをとって人々と寝食をともにしながら生きたイエスの姿を、今日に生きる私たちに、聖書の言葉を通して、リアリティをもって感じさせる力なのだと。その力を私たちは受け取ることができるのです。
 
聖書に示された神の言葉と、神がそれをリアリティあるものとさせるために働く聖霊の力。この両輪こそ、私たちの全空間を神の良いもので取り囲んでくださっていることへの深い信頼。この信頼にあふれながら、今日の一日を生きることができますように。皆さんの神にある平安をお祈りします。

02/09/2024

2024.9.2(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編147編3節
心の砕かれた人々を癒やし
その傷を包む。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ペトロの手紙二2章24節
この方の打ち傷によって、あなたがたは癒やされたのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
傷は傷によってしか癒されることがない。今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が感じたことです。そのことを深めてみたいと思いました。
 
私が神学校に入ることを検討していたときのことです。後に入学することになる神学校を紹介してくれた牧師から一冊の書籍をプレゼントされました。『傷ついた癒し人』(ヘンリ・ナウエン)という本でした。将来牧師になることを目指している人にと、この本を贈ってくださったのだと思いますが、当時の私にはこの本の内容が全く理解できませんでした。難しすぎたのです。
 
時は経て、牧師になった頃、この本を再び手にとって読むことになります。その頃、私は「牧師とはこんなに心が傷つく仕事なのだ」ということを、痛感していた頃でした。教会の信徒さんや日々出会う方々との人間関係で悩み、その方の言動でいちいち心が傷ついていたのです。
 
今振り返れば、私がいかに未熟だったかを思わせられるのです。私は正直傷つきやすい人間であり、その傷の癒しというものを、傷つけた相手に要求していました。相手に謝罪してもらい改善してもらう。私がその人より優位に立つことで、自分の得た傷を癒そうとしていました。そして「傷ついた癒し人」を自分の姿に当てはめて、納得させようとしていたのです。
 
しかし、それはとんでもない思い違いでした。そんなことでは、人間は傷の癒しを得ることができない。いっときは癒されたような気分になっても、また同じことを繰り返しては、自分自身を「傷ついた悲劇の主人公」としてアピールしてしまう自分自身があることに気づいていないのです。傷ついていると叫んで相手を容赦なく傷つけていたのです。
 
だからこそ、今日の聖句にあるように、私に求められていたことは「自分の心が砕かれる」という経験でした。傷ついている自分自身に固執し、そのことを叫び続けることをやめた時に、自分の傷が癒されていくのを感じました。傷口は依然として存在します。しかしその癒しを人に求めるのではなく、究極の「傷ついた癒し人」に自分の傷の癒やしを願った時に、自然とその傷が癒される自分自身に気付き、それはやがて、自分を傷つけた相手に対して、いくばくか客観的な視点で見ることができたのでした。
 
傷ついた癒し人とは、私たちのために鞭打たれ、釘付けられ、罵りを受けながら私たちのために傷つかれたイエス・キリストに他ならないのだと。傷は傷をもってでしか癒されないとは、まさにこのことなのだと、今日の聖句を通して改めて実感させられました。
 
人に向くのではなく、神が私に視線を向けていてくださることに自分の顔を向けることへの幸い。この幸いを胸にして、今日の一日を歩むことができますように。皆さんの主にある平安を祈ります。私のためにも。

01/09/2024

2024.9.1(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編90編1~2節
わが主よ、あなたは代々に我らの住まい。彼らは私の宝となる。
山々がまだ生まれず
あなたが地と世界を生み出される前から
いにしえからとこしえまであなたは神。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マルコによる福音書11章22節
イエスは言われた。「神を信じなさい。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
新しい一週間が始まりました。先週は記録的な台風が日本列島に大きな脅威と被害をもたらしました。そのことで不便を強いられた多くの方々がおられると思います。どうか、神が適切な助け、慰めと励ましを与えてくださいますように。そのことをまず祈ります。
 
イエスは弟子たちに「神を信じなさい」と言われました。そこで、神を信じるとは何かということを改めて考えさせられます。イエスはどのような意味でそのようなことを弟子たちに告げられたのか。神が私たちのために生きて働き、私たちのために守り続けてくださっているこの現実を、自分自身のものとして受け止めなさい。いただきなさい。そのようなところにこそ、どんな苦難が私たちを襲ったとしても、神は必ず私たちに安全を与えてくださるのだ。ここに、神がおられることへの私たちの基盤があることを伝えたかったのです。
 
今日の旧約聖書の言葉は詩編の一節ですが、表題に「モーセの祈り」とあります。エジプトにおける奴隷状態から解放されるために、神はイスラエルの民たちにそこを脱するために旅路を与えました。土地を与えることを約束されました。しかし、その旅路はイスラエルの民たちにとっては、まさに苦難に他なりませんでした。荒れ野における40年間の旅路は、決して順風満帆なものではなく、そこには人間の苦難、なかなか約束が果たされないことへの、神に対する人間の疑念や背反が常に渦巻いていました。
 
しかし、モーセは、神がイスラエルの民を「私の宝」とみなしてくださり、私たちとともにいてくださる神が明らかにおられることを、民たちに再三再四告げ続けました。どんなに人間がへこたれようとも、変わることの無い神の約束を、愚直に伝え続けたのです。人間の心がどんなに変わろうとも、神は絶対に変わらない。それを心の希望とするところに「信じる」ことの意味と幸いというものがあるのだと。
 
今週も私たちの現実世界のなかで、神の私たちに対する態度が、私たちに幸いをもたらす大きな根拠となりますように。そのために神が、御言葉と聖霊の助けをもって、私たちをその道へと導いてくださいますように。心から祈ります。皆さんの日々のためにも、そして私のためにも。