05/09/2024

2024.9.5(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編28編9節
あなたの民を救い
ご自分の民を祝福してください。
とこしえに彼らを養い、担ってください。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書9章36節
(イエスは)群衆が羊飼いのいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
断腸の思いという言葉があります。「帳がちぎれるほどの悲しみ」(広辞苑)という意味で用いられる言葉ですが、今日のローズンゲンに示された新約聖書・マタイによる福音書9章36節で示されているイエスの「深く憐れまれた」という言葉は、まさに「断腸の思い」に相通じるものがあります。他の聖書翻訳では「腸(はらわた)のちぎれる想いに駆られた」(岩波訳)と訳されているくらいです。
 
私たちの感情というものが、身体のどこから起きるものなのか。私などは「心」、つまり心臓を象徴的に取り上げながら、自分自身の感情の動きというものを表現するものだとずっと思ってきましたが、今日の聖書の言葉のように「はらわた」にその想いの源というものを求めることもありますし、最近知ったのは、沖縄では「肝(ちむ)」、つまり肝臓にこそ自分たちの心情の大本があるのだと。こうして考えてみると、いろいろな表現があって面白いなと思わされるわけです。
 
しかし、どれを取っても、私たちの内臓に心情や感情の源を求めているということは、実際にお腹が痛い、肝臓の調子が悪いといった、私たちの誰もが感じる可能性のある「痛み」というものをもって、それくらいの感情を抱くのだということを明らかにしている。イエスが腹がちぎれるくらいに痛みつつ、思いを人々に寄せてくださっていることを改めて思わされます。
 
イエスは、人々が本来養われるべき存在から養われることなく、まるでみなしごのように見捨てられている状況、その状況ゆえに悩み苦しみを抱えた状況のただなかにあることを知って、腸がちぎれるような痛みをもって私たちを見つめてくださっているのだと。私たちはそのような「憐れみ」というものを時に必要とします。私をそのように見つめて欲しいと、周囲に助けを求めることもあるかもしれません。しかし、人間同士で起こるそのような感情は、適切に働くのならばとても良いのかもしれませんが、いつもそのような憐れみをもって自分自身の思いというものが満たされるわけでもありません。期待外れな反応に対して、失望や悲しみを感じることもあるでしょう。イエスの時代に生きた人々は、ことあるごとに周囲の人間に対して、そのような感情をいだいているうちに疲れ果ててしまったのかもしれません。
 
だから、イエスの断腸の思いに通じる憐れみを必要としましたし、私たちがそれを求めるにふさわしい態度を、まずイエスが私たちに抱いてくださった。人間同士で起きる裏切りも失望もなくです。イエスこそ、私たちの魂をご自分の痛みでケアして、養ってくださる方に他ならないのだと、今日の聖書の言葉は私たちに語りかけてくださいます。そのようにして、私たちを祝福へと導くために、今日もご自分の言葉と聖霊の働きをもって私たちを養ってくださる方に希望を抱いて、新しい一日を過ごすことができますように。皆さんの一日のためにお祈りします。

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