02/09/2024

2024.9.2(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編147編3節
心の砕かれた人々を癒やし
その傷を包む。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ペトロの手紙二2章24節
この方の打ち傷によって、あなたがたは癒やされたのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
傷は傷によってしか癒されることがない。今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が感じたことです。そのことを深めてみたいと思いました。
 
私が神学校に入ることを検討していたときのことです。後に入学することになる神学校を紹介してくれた牧師から一冊の書籍をプレゼントされました。『傷ついた癒し人』(ヘンリ・ナウエン)という本でした。将来牧師になることを目指している人にと、この本を贈ってくださったのだと思いますが、当時の私にはこの本の内容が全く理解できませんでした。難しすぎたのです。
 
時は経て、牧師になった頃、この本を再び手にとって読むことになります。その頃、私は「牧師とはこんなに心が傷つく仕事なのだ」ということを、痛感していた頃でした。教会の信徒さんや日々出会う方々との人間関係で悩み、その方の言動でいちいち心が傷ついていたのです。
 
今振り返れば、私がいかに未熟だったかを思わせられるのです。私は正直傷つきやすい人間であり、その傷の癒しというものを、傷つけた相手に要求していました。相手に謝罪してもらい改善してもらう。私がその人より優位に立つことで、自分の得た傷を癒そうとしていました。そして「傷ついた癒し人」を自分の姿に当てはめて、納得させようとしていたのです。
 
しかし、それはとんでもない思い違いでした。そんなことでは、人間は傷の癒しを得ることができない。いっときは癒されたような気分になっても、また同じことを繰り返しては、自分自身を「傷ついた悲劇の主人公」としてアピールしてしまう自分自身があることに気づいていないのです。傷ついていると叫んで相手を容赦なく傷つけていたのです。
 
だからこそ、今日の聖句にあるように、私に求められていたことは「自分の心が砕かれる」という経験でした。傷ついている自分自身に固執し、そのことを叫び続けることをやめた時に、自分の傷が癒されていくのを感じました。傷口は依然として存在します。しかしその癒しを人に求めるのではなく、究極の「傷ついた癒し人」に自分の傷の癒やしを願った時に、自然とその傷が癒される自分自身に気付き、それはやがて、自分を傷つけた相手に対して、いくばくか客観的な視点で見ることができたのでした。
 
傷ついた癒し人とは、私たちのために鞭打たれ、釘付けられ、罵りを受けながら私たちのために傷つかれたイエス・キリストに他ならないのだと。傷は傷をもってでしか癒されないとは、まさにこのことなのだと、今日の聖句を通して改めて実感させられました。
 
人に向くのではなく、神が私に視線を向けていてくださることに自分の顔を向けることへの幸い。この幸いを胸にして、今日の一日を歩むことができますように。皆さんの主にある平安を祈ります。私のためにも。

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