08/09/2024

2024.9.8(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編119編66節
優れた分別と知識を私に教えてください。
私はあなたの戒めを信じています。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テモテへの手紙二2章22節
愚かで無知な議論を避けなさい。それが争いの元であることは、あなたも知っているとおりです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
また新しい一週間が始まりました。今週がどのような日々になるか、それを神がどのように導いてくださるか、そのことに期待して、与えられた日々を歩んでまいりたいと思います。
 
さて、ローズンゲンに示された今日の聖書のことばですが、特に新約聖書・テモテへの手紙二で綴られた勧めの言葉は、とても考えさせられるものであると私は感じました。
 
日本人は議論下手あるということを聞いたことがあります。あくまで論を戦わせるのではなく、感情的ないさかいになってしまうというのです。福澤諭吉が幕末に欧米使節団のひとりとしてイギリス議会を視察した時の話です。口角泡飛ばして激しい議論がなされた後に、議員同士でなごやかに食事をしている光景を見て、福澤は大きなショックを受けたと言うのです。彼は、議論することの大切さとその心構えについて、大いに学ばされたことを後に述べています。
 
議論は、感情の押し付けでもなければ、自分の主張をもって相手を屈服させることでもありません。今日の新約聖書のことばに示されているのは、愚かで無知な議論というものが、この時代にも確かにあったということです。ではそれは何か。あくまで対等な立場で、お互いの思考に理解を示しながらも、自分の意見を述べ合うことができない状況のことを指すのかもしれません。その時に根底にあるのが、自分が優位に立とうという意識なのかもしれません。
 
つまり、私はこうとらえたいのです。優位に立つべきなのは誰なのかということを。それは私たちの神に他なりません。だからこそ、私たちの議論には、どうしても神が必要なのです。そうでないと、いとも簡単に優位に立とうとする私たちの姿があるからです。神を真ん中にして、聖書の言葉を介して私たちが議論するならば、議論の後でもお互いの思いを豊かに尊重しあえる、かつて福澤が見た光景のようなものを、私たちもまた共有できるのではないかと思えてならないのです。
 
そのことが、今日の旧約聖書の言葉にもある、神に願い求めた分別と知識なのだと、私は受け止めました。神がつなぎ合わせた人と人とのつながりを、私たちはどうしても亀裂が生じるような状況へと引き込ませてしまうことがあります。そんな時にふと思い起こしたいのです。ここに私たちの神はおられるのだろうか、ということをです。そのために、私自身の言葉というものを振り返りながら、神に分別する思いと、それを理解するための知識を真剣に祈り、求めたいと思えてならないのです。
 
インターネットやSNSが私たちのコミュニケーションツールとなっている現在だからこそ、とても安易な言葉で、不毛な議論を生むことのないようにと、心から願い、神の憐れみを祈り求めつつ、健全な議論ができるようなやりとりというものをしたいと心から願わされました。もちろん、対面におけるコミュニケーションも同様のことです。
 
健全な議論のある所には神の平和が。神をないがしろにして、自分が優位に立とうとする場には無用な争いが。そんなことを胸に刻みつつ、新しい一週間を神の祝福のうちに生きることができますように。心からお祈りします。

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