くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
レビ記19章34節
あなたがたのもとにとどまっている寄留者を自分のように愛しなさい。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コロサイの信徒への手紙3章11節
そこには、もはやギリシア人とユダヤ人、割礼のある者とない者、未開の人、スキタイ人、奴隷、自由人の違いはありません。キリストがすべてであり、すべてのものの内におられるのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
新しい一週間が始まりました。その先駆けとなる主の日の祝祭である礼拝が、世界中の教会や集会のすべてとともにありますように。この祝祭が、そこに集うすべての方々に祝福をともなって豊かにありますように。お祈りします。
祝福に垣根なし。私が今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、神からのメッセージとして受け取りました。神は自分の民に境界線を設けることなく、すべての人たちに祝福をお与えくださることを、今日の聖書の言葉で物語っていると私は強く思わされます。
寄留者という言葉が、今日の旧約聖書の言葉に登場します。定住する場を持たない人たちのことを寄留者と呼ぶわけですが、別の聖書を見ると「よそ者」と表現されているものもあります。つまり、自分自身の「常識」から外れている人たちのことを、私たちは「よそ者」と規定して、自分とは異質な存在として受け入れることがない。これは、古今東西人間がそうしてきたことです。私とて、本性としてもっているのは「よそ者と規定したくなる思い」かもしれません。
しかし、私たちの神はそうではない。よそ者をも自分自身のようにみなし、大切にしなさいと語っておられるのです。神はご自分の民とそうでない者をしっかりと分けて、そして裁きをおこなう方である。聖書にはそのように読める箇所が随所にみられるのも確かなことです。しかし、神はよそ者を自分のように慈しみ、大切にしなさいとも語っておられるのです。どちらが本当の神の思いなのでしょうか。
ここで、私はあらためて思います。どちらかではなくて、やはり神は誰をも大切にされる方なのだと。しかし、私たち人間は、なかなかそのことが理解できないからこそ、神が時にご自分の民を守ろうとする姿を、分断と選択という視点でしか読めないようにミスリードしてしまう。それが人間なのだと。私はこう信じたいのです。神は、人間がよそ者と扱ってしまいたくなるような方々をも大切にされるということを、自分たちも大切にしようと決意し、そうしようとする人間を、ご自分の民として大切にしてくださるのだと。神はこの世界から、よそ者という言葉すら無くなるような世界をつくられようと、今日も生きて働いているのだと。果たして、私たちはそのことをどれだけ、今日を生きる糧として自分のものとすることが出来るのだろうかと。
今日から始まる新しい一週間が、そのような祝福に包まれた日々でありますように。私たちすべてにとって。
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