21/09/2024

2024.9.21(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
箴言15章13節
一人の心が喜びを抱けば人々の顔を明るくし
一人の心が苦しめば人々の霊は沈み込む。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録8章39節
宦官は喜びに溢れて旅を続けた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
今日のローズンゲンに示されている㋑旧約聖書・箴言15章の言葉は、一般的にも広く受け入れられるものなのではないかと思います。ひとりの心が喜べば周囲も喜び、一人の心が苦しめば周囲も苦しむのだと。箴言はそのような私たちの生活のごくごくありふれた光景というものを、ことわざとして物語っているのだと私は思います。
 
しかし、私は今日のこの言葉に触れた時に、同意を示すけれど同時に違和感のようなものも覚えずにはいられませんでした。どういうことかについて、綴ってみたいと思います。
 
教会では、しばしば愛とか喜びという言葉が「キリスト教の看板」のように掲げられて、この看板に向かって勇ましく語られることがあります。喜びましょう!このように牧師や教会に属している信徒が言うことがあるでしょうし、それは決して間違ったことではないと思います。
 
しかし、そのことがかえって「圧力」になってしまうことも、時にはあると私は思うのです。たとえば、今日の聖書の言葉を引き合いに出せば、私が喜べば周りも喜ぶからという理由で、カラ元気を装ってみたり、悲しく沈んでいる顔をしていれば、周りが暗い気分になるから、悲しい気分に蓋をして、無理に喜んでいるポーズをしてみたりとか、そういうことを、教会という環境のなかで、自分の気持ちを押し殺してでもそうしなければならないような雰囲気というものがあるならば、それは良いことを掲げながらもそれが立派な圧力になってしまうのだと、私は自戒を込めてそのように思わずにはいられないのです。
 
そうなってしまうと、信仰生活というものがもはや精神論や根性論のようなものになってしまって、喜べなかったら不信仰者であるというようなレッテルを貼り、そして貼られてしまう風になりかねない。そういう見方は、キリスト教的価値観というより、個と神の関係をないがしろにした、人間集団の誤った形成のしかたのような気がしてならないのです。
 
私は、喜びたい時には大いに喜び、悲しみたいときには大いに悲しめるような環境こそ、教会に必要なことであると考えています。大切なことは、喜びや悲しみを私たちが感じ、それを表現する時に、そこに私たちの神が私たちの心におられるだろうかという問いを、私たち一人ひとりがいつも持っていることなのだと思います。底に神がおられるならば、神の思いが私たちとともにあるならば、誰からも誘導されることなく、自らのうちから喜びというものが芽生えるだろうし、悲しみを感じたとしても、周囲が嫌気をさすような悲しみを振りまくことは無くなるのだと。私はそのようにこの箴言の言葉をとらえたいと思いました。
 
今日の新約聖書の言葉は、神の言葉にふれたエチオピアの役人がその喜びのあまり、洗礼を受けることを希望して、洗礼を受けた彼はその喜びを胸にして旅を続けたという話です。誰からも強要されることもなく、神との出会いを素直に喜べたこの役人の姿こそ、喜びが喜びとされる一瞬だったのだろうと思いますし、そのたぐいの喜びというものを、私も大切にしたいと思ったのです。
 
どうか、一週間の終わりを締めくくる今日の一日が、皆さんにとっての素敵な時となりますように。お祈りします。

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