12/09/2024

2024.9.12(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編82編3節
苦しむ人や乏しい人を義とせよ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テサロニケの信徒への手紙一3章12節
主があなたがたを、互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ち溢れさせてくださいますように。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示された旧約聖書・詩編82編は、神の私たちに対する「裁きの言葉」として歌われているものです。裁きとは、私たちに懲罰を与えることを目的としているのではなく、私たち一人ひとりを神御自身の正しさをもって、歩むべき道を歩むことができるように導いておられるものです。
 
そのなかで、神は民たちに告げられます。苦痛を得ている者たちや、あらゆるものが奪われ乏しくされている人たちにこそ「義とせよ」と。この義賭せよと言う言葉がどのような意味で用いられているを、振り返ってみたいと思いました。
 
旧約聖書において「義」とは、私たちの内から起こるという種類のものではなく、私たちが努力の結果得るというものでもありません。義とは神にしか持つことのできないものであり、私たちが義とされるときに、それは神と私個人、神と私たちという集団における関係性が充実されていること無しに、私たちのうちに義が宿ることはありえないと考えられてきました。神は正しい御方であり、正しさは神にこそあるのです。
 
つまり、苦しみ、乏しい者たちを「義とせよ」というのは、こういう人たちにこそ、神がご自分の正しさをもって人々とともに歩むという、神御自身の決意表明のようなものとして、私たちは受け入れることができるのです。そう、私たちはそのような神のアプローチを、何のためらいも遠慮もなく、いただくことができるのです。こうして「義とせよ」という神の命令が実現するのです。
 
この「義」は「愛」というかたちをもって私のうちに、私たちのあいだに注がれていく。つまり、神の正しさはあくまで、ご自分が与えた命を尊び、神との関係性において、その命が祝福に満ちあふれることを神は願っておられます。それが「愛」というかたちで私たちに示されたのです。この愛というのもまた、義と同様、神だけがもっているものであって、それが私たち一人ひとりに分け与えられていることを、私たちが大いに受け入れることのできるものであると言えるでしょう。
 
愛にはさまざまなかたちがありますが、神が与えたもうた「アガペー」と言われる愛に生きることが、私たちが神からの祝福をもって生きる大きな根拠となるのだと私は信じたいのです。自分のことは差し置いてでも、私たちの幸せのために自分自身を犠牲にするような愛を、神は私たちに差し出し、そして与えてくださいました。その差し出されたものこそ、救い主イエス・キリストなのだと。
 
私たちはどうしても愛を実践できないことも多々あります。しかし、そのことに落ち込むことなく、また開き直ることもなく、私たちの目前に掲げられたイエス・キリストという看板が、今日もまた私たちを生かしてくださるのだと。そんな思いをもって、新しい一日を過ごすことができますように。私たちのあいだに宿る義と愛が、私たちの生きる柱となりますように。お祈りします。

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