13/09/2024

2024.9.13(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編17編7節
あなたの慈しみの業を現してください。
攻め来る者から逃れる者を
右の手をもって救われる方。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ペトロの手紙一4章14節
キリストの名のゆえに非難されるなら、あなたがたは幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。

神を信じて生きるがゆえに、立場の狭い思いをする。特に、日本のようにキリスト教が文化の根底に無いところでは、そのような思いにさせられることは、もしかしたら決して珍しいことではない。そのようにお感じになられている方もおられるかもしれません。
 
今日の新約聖書・ペトロの手紙一に記された一節には、「キリストの名のゆえに非難されるなら、あなたがたは幸いです」とあります。キリストの名のゆえに迫害されるとはどういう意味なのか、そのことを考えさせられます。
 
はるか昔、キリシタンの時代にいわゆる幕府が差し出した「踏み絵」を踏むことができなかったがゆえに殉教した人々の話、いわゆる昭和時代の初期から第二次世界大戦の終わりにかけて、政府が看板とした「国家神道」に基づいて、いわゆる天皇よりキリストを崇拝することを明らかにすれば、治安維持法違反で多くのキリスト者たちが投獄されたこと。これらのことも「キリストの名のゆえに迫害された経験」かもしれません。実際に、ペトロの手紙が書かれた頃のクリスチャンたちも、多少なりともローマ帝国による過酷な迫害を味わわなければなりませんでした。
 
しかし、私はそれらの迫害ももちろんそうであることを認めつつも、私たちがなぜキリストの名のゆえに迫害をされることが生じるのか、その根底にある部分に眼を留めたいと思いました。キリストの何を優先し、大切にするのだろうか。私は、キリストが示されたアガペーの愛をいただいた者として、その愛を身に帯びて人や社会に向かおうとした際に、必ずそのことを自分自身の中心とするがために、それに抗する力によって迫害されるのではないか。そのように感じています。
 
つまり、キリストの愛に反抗し、そこに立ち向かうのは人間の自己愛です。キリストをないがしろにして自分を防衛し、保身しようとする自己愛です。イエスの時代に、イエスを憎しと思い、イエスを殺そうとした人々は、神を愛していると言いながら、自己保身にまみれて自己愛を貫こうとした人々でした。その時に、キリストの愛を大切にするがゆえに、迫害を受けることだってあるというのを、イエスご本人が経験し、その記録を私たちに伝えていると言っても良いでしょう。
 
しかし、いかなる自己愛であったとしても、神の愛、キリストの愛に勝るものはありません。神の霊が私たち一人ひとりにおよび、キリストの愛に生きようとする私たちを必ずご自分の慈しみをもって守ってくださると言うのです。キリストの愛に生きるというのは、本当に過酷なものなのかもしれません。しかし、その過酷さで私たちがつぶれてしまうことを、決して神はお許しになりません。そのことが、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句から言えることなのではないか。私はそのように受け入れたいと思ったのです。
 
つらいなかにも、私たちを幸いとしてくださるキリストが、今日も私たちを守り、導いてくださいますように。お祈りします。

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