11/09/2024

2024.9.11(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編51編12節
神よ、私のために清い心を造り
私の内に新しく確かな霊を授けてください。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テモテへの手紙一1章5節
私のこの命令は、清い心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を目標としています。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、こんにちは。
今この黙想を綴っているのは、夕方を迎えようとしている17時前です。今日は早朝から移動をし、取り急ぎしなければいけない作業やオンライン会議を経て、ようやく一段落つきましたので、遅ればせながら、今日の黙想をしたいと思いました。しばしお付き合いくだされば幸いです。
 
今日の新約聖書の言葉は、伝道者パウロから年若い同労者であるテモテへ書き送られた手紙の言葉が選ばれています。そのなかで「私のこの命令は」というひと言がどのような命令だったのか。その前の文章を読めば分かるわけですが、テモテはエフェソで伝道するにあたって「無意味な詮索を引き起こすような」教えであるとか、その教えを導き出すためのさまざまな手段に人々が頼ることのないようにしなさいということを、パウロから命じられていた。指導されていたことが記されています。
 
無意味な詮索。とても興味深い言葉であると私は思いました。聖書では「異なる教え・作り話・きりのない系図」という書かれ方がされているわけですが、私はどのような「素材」かが問題なのではなく、人間は無意味な詮索をするために、身の回りにあるあらゆるものを用いながら意味のない詮索をして、物事の本質というものを複雑化しようとしているのではないか。そのように思えてならないのです。
 
話を複雑化させることによって、本質にあるものを見えなくさせてしまうのは、実に残念なことです。人間はシンプルな物事にあこがれを抱き、そこを目指そうとしながらも、どうしても複雑な方向に自分自身をもっていってしまう。結局答えが見いだせず自分自身のなかだけで考えれば考えるほど、迷走してしまうというわけです。
 
ですから、私たちが意味のない詮索をしなくてもいいように、神は私たちが見つめるものを与えてくださった。それが今日のみ言葉にもあるように「清い心・正しい良心・偽りのない信仰」であり、すなわちイエス・キリストその御方がこのことを体現し、私たちに示してくださったのだと。イエス・キリストを見つめつつ、私たちはイエスが私たちに示してくださったものを喜んで受けとることができるのだと。あえて複雑化する必要はどこにもないのだと私は思えてならないのです。
 
本来シンプルな本質を私たちは複雑化し、それゆえに迷走してしまうというのは、清い心、正しい良心にもとづいた、偽りのない信仰の実体としてのキリストが、私たち一人ひとりに示してくださった「愛」が欠如しているからこそのものなのだと。だから、私たちはイエスの愛を十分にわが身に浸みこんでいくことを拒むことなく、そのことを常に神に対して求め続けて生きたいと願わされます。
 
今日の旧約聖書に示された詩人の祈りは、まさに自分自身が迷走しないで生きていくためにも、神があますところなくイエスの愛を差し出してくださるのだと。私たちは自分自身の知識で混線して見えなくさせてしまうことなく、意味のある生き方を心から望むがゆえの祈りというものをささげたい。いただきたい。そのように思いたいのです。
 
今日も夕方が過ぎ、夜を迎えるなかにあって、私たちは一日を振り返ることと思います。そんななかで、あまりにも複雑な状況のなかに心身を置いたために疲れ果ててしまうならば、神がその疲れを癒してくださいますように。イエスが私たちのために生きて働いてくださっていることを、実体として感じとることができますように。神の祝福と守りを心から祈ります。

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