31/12/2023

2023.12.31(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書54章7節
ほんの僅かな間、私はあなたを捨てたが
深い憐れみをもって、あなたを連れ戻す。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テサロニケの信徒への手紙二2章16~17節
私たちの主イエス・キリストご自身と、私たちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださった、私たちの父なる神とが、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い行いをし、善い言葉を語る者としてくださいますように。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
2023年もとうとう最終日となってしまいました。この一年、私たちの世界は、コロナ禍からの解放、ウクライナやパレスチナの地における戦火、日本においては政治の混乱などなど、まさに激動の一年であったと言えるでしょう。そんななかで、私は思います。「神に見捨てられたような感覚」を持たれた方々がどれだけいるだろうかと。
 
今日の旧約聖書の言葉には、神が「ほんの僅かな間、あなたを見捨てた」と預言者を通して語られています。確かに、イスラエルの民は神から見離されたような感覚に陥ったことがありました。長年にわたって囚われの状態の時もありました。祖国を追われて辛酸をなめなければならないこともありました。
 
しかし、これは神によるいたずらだったのでしょうか。私たちは自分自身のことを棚に上げて、神に自分たちのことを守ってくれないと不平不満をたらしてしまうのでしょうか。私は思うのです。こういう辛い時にこそ、私たち人間にすべきことはないのだろうかと。見捨てらえれた嘆き続けるのではなく、その嘆きを通して私たちが得るものはないのだろうかと。
 
神は「深い憐れみをもって、あなたを連れ戻す」と、約束してくださいました。実は私たちは神に見捨てられていなかったのです。見捨てられたような感覚を抱くことがあったとしたら、それは私たちがそのことを通して、何かを学び取る機会を、神は憐れみのうちに与えてくださっていたのかもしれません。それが、神による連れ戻しの準備の時であるのだと、私は受け取りたいのです。
 
神はいたずらに私たちを見捨てたりはしない。しかし、その安心感ゆえに、私たちが知らぬ間に神との関係性が希薄になってしまうとき、私たちにはやはり、神の慰めと励ましに基づいた自己発見の機会がやはり必要なのだと思わされます。
 
この一年間、ローズンゲンというほんの短い聖書の言葉から、私たちは神との関わりにおいて自己を発見し、神とともに歩む幸いを見い出す機会が与えられたことに、心から感謝いたします。来たる2024年も、ローズンゲンを通して、神の言葉をいただき、黙想しつつ祈る。そんな機会を共有できればと心から願います。一年間、お世話になりました。そして、来年もよろしくお願いいたします。

30/12/2023

2023.12.30(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
創世記39章9節
一体どうしてそのように大それた悪事を働き、神に罪を犯すことができましょう。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テサロニケの信徒への手紙一4章7節
神は私たちを汚れた生き方へではなく、聖なる生き方へと招かれました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
 
今日の旧約聖書ですが、ローズンゲン(ドイツ語原版)には、但し書きが記されています。「自分を誘惑したポティファルの妻へのヨセフの言葉」。イスラエル(ヤコブ)の息子であるヨセフがエジプトへわたり、官僚であるポティファルに引き取られます。ヨセフは利発の良さも手伝って、ポテイファルに重用されました。
 
そんなときに、ポティファルの妻にも気に入られ、ヨセフは彼女の性のはけ口として誘惑を受けることになります。主従関係を用いて、彼女はヨセフを自分の言いなりにさせようとしました。まさに「ゆがんだ支配」がここにありました。
 
しかし、そのような支配関係は、自分自身が求める支配・被支配関係ではない。ヨセフは、自分を生かしてくださるヤーウェの神こそ、自分の従うべき方なのだということを、ポティファルの妻に明らかにしました。それが、本日の旧約聖書の言葉です。
 
ヨセフは、神が望んでおられる「夫婦のかたち」を破壊するようなことは、絶対にできない悪事であると認識していました。だからこそ、どうして神に罪をおかすことができるだろうと、告白したのでした。あくまで、神が何を望んでおられるかということを、ヨセフは自分の生き方としようとした結果だったのです。
 
結果として、ヨセフに自分自身のプライドをずたずたにされたポティファルの妻は、ヨセフを窮地に陥れました。嘘の告発を自分の夫ポティファルにし、ヨセフは主人の怒りを買い投獄されます。しかし、それはいっ時のことでした。神はヨセフの誠実さを祝福されました。ポティファル夫妻を報復することなく、ヨセフはエジプト王の厚い信頼を得た人生を送ることになるのです。
 
さて、キリスト教は、このヨセフの抱いた精神を継承し続け、性倫理を語るうえでのひとつのモティーフにして、今日にいたっています。しかし、私はいつもこのような性に関する倫理について考えるときに、このヨセフの物語を、どのようにとらえることができるだろうかということを大切にしたいと思っているのです。
 
仮に「ヨセフのようにあらゆる性の誘惑を避けなければいけません」と捉えて、まるで掟のようにこの言葉を受け入れようとするならば、私はヨセフの精神を受け継いでいるとは思えないのです。そうではなく、私がヨセフに学ぶべきなのは、ヨセフが神との深い関係性のなかで、何が一番自分自身にとってふさわしい生き方ができるのだろうかということを、真剣に問い続けた。そこにこそ、倫理がもたらす肝というものがあるのだと、私は受け取りたいのです。
 
つまり「なぜ」を問うことの大切さがここにあります。機械的に言葉だけを聞き続けても、心がともなっていなければ、そこに意味を見い出すことはできないからです。人間ですから、倫理的に思い違いや選択のミスをすることだっていくらでもあると思うのです。ただ、そういう出来事を繰り返していくなかで、常に「なぜ」を問うこと、神との関係のなかで、何が本当に神の喜びに応じた生き方を営むことができるのだろうかと問いながら、日々を過ごすことこそ、今日の新約聖書で言われている「聖なる生き方」へと導かれていくのだと思いたいのです。聖なる生き方とは、聖なる御方である神の「聖」というものを、自分自身がいただくことによって、そうさせられていくことを意味するのだと思います。
 
今年を神とのかかわりのなかで振り返りつつ、自分自身の倫理を問うことのできるような一日でありたいと願います。皆さんの一日も祝されますように。お祈りいたします。

28/12/2023

2023.12.28(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編104編14節
家畜のために草を
人間の働きに応じて青草を生やす方。
こうして主は地からパンを生み出す。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙5章20節
いつも、あらゆることについて、私たちの主イエス・キリストの名により、父なる神に感謝しなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今年も残すところあと4日。あっという間に時が過ぎていくのを感じる12月です。この一年を振り返る機会がことごとに与えられていますが、今日のローズンゲンに示された御言葉は、そのことを感じさせるものであったと私は受け取りました。
 
人間の働きに応じて青草を生やす方」と、詩編に示されています。私たちは誰ひとりとして同じ存在ではない。しかし、あえて同じという言葉で表現するならば、神が私たち一人ひとりのために働いてくださり、青草を生やしてくださる方であるということです。私たちのそれぞれが、神によってその「個性」が大切にされ、そして愛されているということを、このひと言はストレートに表現しているように思うのです。
 
その結果として「主は地からパンを生み出す」と、詩人は歌っています。パンは私たちの命を支えるために無くてはならないもの。そこから転じて、神は私たちの命を「無くてはならないもの」とみなしておられることを、私たちはイメージできるのだと思うのです。神の眼からすれば、だれも必要ないなんていうことはない。その命が尊ばれるべき存在なのだと、私たちは受け取ることができるのです。
 
ただ、私たちの側にもひとつ必要なことがある。それが本日の新約聖書に示されたテーマに相通じるのですが、それは「神に対する感謝の心」であるということです。私たちは個性が大切にされているからといって、野放図に、好き勝手にことを振舞えば良いということでは決してなく、神が何を願って私たちの個性を大切にし、そして愛してくださっているかということを、私たちの側もまたじっくりと黙想して、そのために聖書の言葉に聴いたり、聖霊の助けを求めながら祈るところにこそ、感謝の思いというものが表れるのだと受け取りました。そのあたりを、今年一年を振り返るための柱にしたい。そんな風に思わされたのでした。
 
どうか、今日の一日も主にある祝福のうちに、皆さんの生活がありますように。お祈りいたします。

27/12/2023

2023.12.27(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書44章6節
私は初めであり、終わりである。
私のほかに神はいない。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書6章9節
だから、こう祈りなさい。
天におられる私たちの父よ
 御名が聖とされますように」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日の新約聖書の言葉は、イエスによって教えられた「主の祈り」の冒頭部分です。「み名をあがめさせたまえ」という箇所ですが、「あがめる(崇める)」という言葉が「聖とされる」という表現になっています。もっとも、カトリック教会や聖公会などでは、もとから「聖とされますように」という主の祈りが、祈られ続けています。
 
私たちは、神が聖なる御方であるからこそ、神をあがめる者とさせられるわけですが、しかし、それでも「あがめられますように」と「聖とされますように」では、やはりニュアンスというものが違ってくるのではないか。そう思ったのです。そして、私は「聖とされる」という表現にこそ、神が私たちにとってどういう御方であるかということを、より一層クリアなものにしているのだ。そのように受け取りました。
 
私たちがあがめようともあがめまいとも、神は聖なる御方であられるのだということを、私たちは自分たちの祈りのなかで告白する。ここに、今日の旧約聖書の言葉へとつながっていくのだと私は感じました。「私のほかに神はいない」と、神はご自分の民に告げられ、その初めも終わりも、すべて神がつかさどっておられるというところにこそ、神がご自分の聖性というものを保たれているのだと、私は受け取ったのです。それは、私たちの自意識に関係のないところで、神は動き、働いておられるのだと。
 
神が、そのような「聖なるもの」を掲げておられることこそ、私たちの生き方にも関わっておられることをイメージしながら、今日の一日を過ごしてまいりたいと思います。皆さんの一切に、神からの祝福と守りをお祈りいたします。

26/12/2023

2023.12.26(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書60章16節
私があなたの救い主、主であり
あなたの贖い主、ヤコブの力ある者である。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テモテへの手紙二1章10節
今や、私たちの救い主キリスト・イエスが現れたことで明らかにされたものです。キリストは死を無力にし、福音によって命と不死とを明らかに示してくださいました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。そして、クリスマスおめでとうございます。
 
先週の木曜日に黙想をお届けして以来、またもやしばらくお休みをいただきました。体調は日ごとに良くなっていたのですが、24日のクリスマス礼拝と関連行事のほうに集中していました。今年は24日に日曜日が重なったため、おそらく皆さんが集われている教会でも、行事が目白押しだったのではないかと思います。私もふたつの教会での務めを終え、昨日は一日ゆっくりと身体を休めていました。今日からまた再開したいと思います。どうぞよろしくお願いします。
 
さて、本日12月26日ですが、ローズンゲンには「第2クリスマス(日本語版は降誕祭次日)」と記載されています。この日はドイツは祝日として一日をもちます。クリスマスの余韻を楽しみながら、家でゆっくり過ごしたり、クリスマス休暇のひと時を楽しみます。日本では、年の瀬に向かってなおあわただしく動いているイメージがありますので、この時にのんびりとした時を持つことが、とても贅沢のようにも思えるのです。
 
私たちに休息と安らぎを与えてくださる方が、クリスマスの喜びをも与えてくださる。それが、神が私たちとともにおられることであると、今日示されたふたつの聖書の言葉を通して感じさせられたことです。私たちがどんなにあわただしい日々を過ごしていたとしても、神が私たちと一緒にいてくださる。これが私たちに安らぎを与える根拠に他なりません。
 
今日の新約聖書の言葉である、テモテへの手紙に書かれている「死を無力にした」キリストのことです。イエスは、十字架につけられて命を落としたのち、復活をもって人々に再びその命を現わされました。まさにイースターは「第2のクリスマス」として、私たちに死を無力にして新しい命の誕生を示してくださったのです。
 
今日もいろいろと忙しい一日を過ごされるかと思います。どうぞ一切に、神の平和と安らぎがありますように。お祈りいたします。

21/12/2023

2023.12.21(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エゼキエル書書37章14節
私があなたがたの中に霊を与えると、あなたがたは生き返る。私はあなたがたを自分の土地に安住させる。その時、あなたがたはわたしが主であることを知るようになる。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二3章17節
主の霊のあるところには自由があります。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
 
一昨日、昨日と黙想をお届けすることができませんでした。特に昨日は体調を崩してしまい、不覚にも一日寝込んでおりました。しかし、ゆっくり休んだおかげもあり、随分体力が回復してきたようにも思います。クリスマスを目前に控えていますので、決して無理をせずにこの数日間を過ごしてまいりたいと思います。皆さんも寒いなかにあって、どうぞ健康が神様によって守られますように。お祈りいたします。
 
さて、今日の聖書の言葉ですが、旧約・新約に共通するワードは「霊」でした。霊は人間の健康に欠かせないものであると、聖書では繰り返し言及されているわけですが、ここで言う霊とは、明らかに神が私たちに与えてくださる霊であり、それは神の霊から聖霊なる神とまで呼ばれるようになった、私たちが信仰によって生きるためには絶対不可欠な存在として、私たちのあいだに受け止められているものであると、私は理解しています。
 
聖霊のお働きについて、今日の旧約聖書であるエゼキエル書では、「私たちを生かし」「私たちに安らぎを与え」「神とともにあることを理解する」ための源となり、新約聖書であるコリント書では、聖霊によって「自由を味わう」と記されています。
 
そして私は思ったのです。体調を崩している時こそ、私に必要なのは身体的な健康もさることながら、上に掲げたような、聖霊が与えてくださる健やかさというものも、是非意識したいと思わされたのです。いわゆる霊的健康というものが、人間を全人的に活かすものであると。肉体的健康と霊的な健康の両輪が、いかに私にとって大切なものかと思わされたのです。身体が疲れれば心も疲れる。そのバランスを保ちたいと、今日の聖書の言葉から学ばされました。
 
今日も神と共に歩むなかで、素敵な時となりますように。

18/12/2023

2023.12.18(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ダニエル書2章21節
神は時と時期を変え
王を退け、王を立て
賢者には知恵を、分別を知る者には知識を与えます。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書1章52節
主は、権力ある者をその座から引き降ろし
低い者を高く上げられる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
 
今日私たちのために選ばれたふたつの聖句を通して、私のなかで思い浮かんだのは、人間の持つ権力と、神の持たれる権力を、同じテーブルの上に乗せたらどのように感じるのだろうか、ということでした。
 
今、日本ではいわゆる「政治とカネ」の問題を通して、権力とはいったい何かということを、国民が問わされているような気がしてなりません。それは、単に金銭の用い方というところを超えて、私たちのためによいかたちで治めてくれる「権力」とは、どういうものなのだろうかということをです。
 
今日の旧約聖書の箇所である、預言者ダニエルの言葉にしても、新約聖書の箇所である、イエスの母マリアによる祈りの言葉にしても、共通するのは、強大で狂暴な政治権力のもとに生活をしていたということです。そこで多少なりとも彼らは苦しみを抱えながら、自分たちの神に解放を願い、そして期待を寄せていたと言えるでしょう。そういう意味で言えば、今日の聖書の言葉は、神は必ずこの状況をただしてくださるという強い期待のうえに与えられた、神の言葉であると言えるでしょう。
 
私たちは、この世界が少しでも良い方向に動くことを心から望みます。しかし、世界をつくりあげるのは、権力者たちの専有ではない。私たちこそ「平和をつくり出す者」としての自分自身があることを、知らなければならないと思っています。だからこそ、私たちは神の言葉によって生きるという、強い決意、選択と決断、そして実践というものが求められているのでしょうし、そんな自分自身を常に神の御心に照準を合わせるために、神の言葉に聴き続けていくための営みというものが求められるのでしょう。
 
神は、その時に応じて神の言葉に聴く者たちに対して、知恵と知識を与え続けると約束してくださっています。私利私欲のための悪知恵ではなく、あくまで世界を幸福へと導くための知恵と知識をです。私たちはそれによって、今日も世界の平和に向けて生きていくことができるのだと。そんなことを心から望みつつ、与えられた命を用いたいと心から願わされました。
 
皆さんの一日に、神の守りと祝福が豊かにありますように。お祈りいたします。

17/12/2023

2023.12.17(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
民数記23章19節
神は人ではないから、偽ることはない。
人の子ではないから、悔いることはない。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二1章18~19節
神は真実な方です。だから、あなたがたに向けた私たちの言葉は、「然り」であると同時に「否」であるというものではありません。私たち、つまり、私とシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、「然り」と同時に「否」となったような方ではありません。この方においては「然り」だけが実現したのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、こんばんは。昨日の黙想に引き続いて、今日のローズンゲン黙想をお届けしたいと思います。本当は朝にお届けしたいのですが、私の要領の悪さというか、なかなか朝にお届けできずに、今頃の時間帯になってしまうことがあることを、お許しくださればと思います。
 
今日は待降節(アドヴェント)3回目の日曜日を迎えることができました。朝礼拝に続いて、夕礼拝のひと時も持つことができました。いつになく寒く、夕礼拝の始まるころからちらついていた雪も、礼拝の終わるころにはうっすらと積もっていました。ホワイトクリスマスを感じさせるひと時を思いました。
 
神は私たちに対して、偽ることも悔いることもない。今日の旧約聖書の言葉である民数記の一節は、そんなメッセージを私たちに与え手くれます。神が私たちを造られたことを悔やまれることはあるのだろうかと、私は思ってしまうことがあります。この世界が、そして私自身の生活が、神が私たちに注がれる愛とは真逆の方向に進み行こうとしているときに、こんな私たちの姿を神はどのようにご覧になられているのだろうかと、私たちを造られたことを神は悔やんでおられるのではないかと思ってしまうこともあるのです。
 
しかし、そんな私たちに、救い主イエスを与えてくださったのは、他ならぬ神御自身であることを、私たちはこのクリスマスシーズンの時に知るに至らされているのです。しかも、無条件で、私たちの資質にかかわらず、神は救い主をお与え下さったほどに私たちを愛されている。これが聖書の語るメッセージとして私たちに与えられている保証。そしてイエスという信仰の実体が与えられたことへと相通じるのだと。ここに偽りなく、神が当初の約束を果たしてくださったというのです。
 
この神の御心を余すところなく私たちに示されたのが、救い主イエスでした。すべてが然りのうちに実現されたと、使徒パウロは書き綴りました。イエスには偽りがなかった。私たちに真摯に向き合われ、それは今日においても、私たちに向き合ってくださる方であることを、私たちはクリスマスが近づきゆきある今こそ、心から受け止めていきたい。そのように願わされます。
 
どうぞ、明日からはじまるウィークデイの日々に、真実なる神の助けと祝福がありますように。お祈りいたします。

2023.12.16(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ヨエル書2章19節
私は穀物と新しいぶどう酒
また新しいオリーブ油を送り
あなたがたを満ち足らせることができる。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書14章19~20節
イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで祝福し、パンを裂いて弟子たちにお渡しになり、弟子たちはそれを群衆に配った。人々は皆、食べて満腹した。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、こんばんは。今は、17日日曜日の夕刻となりました。
昨日のローズンゲン黙想をお届けできませんでしたので、今どきとなってしまいましたが、あらためて黙想を掲載したいと思います。クリスマスを目前として、ゆっくりと黙想することができておりませんが、少しでも想ったことを書き留めておきたいと思いました。お読みくだされば幸いです。
 
この日に選ばれたふたつの聖書の言葉が指し示すのは「神は豊かに食物を与えてくださる」ということであると受け止めました。神は必要と思われるところに、ご自分の愛する人たちの空腹を満たされるために、生きるための「糧」をお与えくださるということです。それは文字通りの食べ物というよりは、私たちを精神的な部分で生かすための食べ物という捉え方も大いにできると、私は受け止めたいと思います。
 
神が私たちに食べ物を与えてくださる目的は「満ち足らせる」ことにあります。私たちが不足を感じることのないように、神が与えてくださる。ただし、世界を、そして私たち自身の周囲を見渡せば、満足を感じることのない出来事など、いくらでも存在することに私たちはすぐに気づくことができるでしょう。だから、私たちが不足のないようにと言われても、それを実感するに足らない現実のなかで、私たちはこの言葉をどのように受け止めたら良いのだろうか。そんなことも思わされるのではないかと、私は考えたりしてしまいます。
 
ただ、これだけは覚えておきたいというのがあります。それは、私たちの神は、私たちが不足を感じないように生きることを、誰よりもお望みであるということをです。神の言葉によって生かされるというのは、不足を感じないように神が何を私たちに期待して、望んでおられるかということを、私たちがいかにイメージし、それを自分自身の生き方とすることができるか、ということなのではないかと思えてならないのです。
 
この世界にある不足は、その根源は私たちの「過剰な欲望」にあるのではないだろうか。誰かが独り占めをしてしまうようなことが、みんなが満ち足りるような世界を破壊しているのではないか。そんなことを強く思わされるのです。だからこそ、神がご自分の言葉を通して願っておられることを、私たちは丹念に、誠実に聴き取っていきたい。そんなことを想わされました。
 
どうか、皆さんの生活に過不足のない幸いというものを、神の言葉を通して実感することができますように。神の助けを心からお祈りいたします。

15/12/2023

2023.12.15(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編107編23,24,31節
船で海に出た人々は
主の業、その奇しき業を見た。
主に感謝せよ。その慈しみと
人の子らになされた奇しき業のゆえに。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
使徒言行録28章1~2節
私たちが助かったとき、この島がマルタと呼ばれていることが分かった。島の住民は大変親切にしてくれた。たき火をたいて、私たち一同を迎えてくれたのである。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日の聖書の言葉、特に新約聖書の言葉は、使徒パウロが海路を渡る最中に、暴風「エウラキロン」に翻弄されて、命の危険を感じるなかでも、神が無事に船を陸にあげてくださった時の記録です。マルタ島に到着した時、パウロとその一行は、島の人たちの温かいもてなしを受けたことが記されています。どんなときにも、神は彼らの命を守ってくださった。そこにこそ神の助けがあることを想わせる聖書の言葉です。
 
その言葉は、本日の旧約聖書の言葉である詩編の一片に相通じるものがあります。船によって海路に出た人々は、主の奇しき業、つまり人間では到底想像もつかないような主なる神の御業を体験したということを、詩人は歌っています。それは、神が私たち人間に対して、愛し、いつくしみの思いを向けられた結果であると、詩人はその理由を賛美したのでした。
 
私はこの聖書の言葉を今日目にしたときに、聖歌の「人生の海の嵐に」という賛美を思い出しました。私の大好きな賛美のひとつなのですが、まさに、このことだと思ったのです。歌詞はこのようにあります。(曲はこちらからお聴きください)
 
人生の海の嵐に もまれ来しこの身も
不思議なる神の手により 命拾いしぬ
いと静けき港に着き われは今 安ろう
救い主イエスの手にある 身はいとも安し
 
悲しみと罪の中より 救われしこの身に
いざないの声も魂 揺すぶること得じ
いと静けき港に着き われは今 安ろう
救い主イエスの手にある 身はいとも安し
 
すさまじき罪の嵐の もてあそぶまにまに
死を待つはたれぞただちに 逃げ込め港に
いと静けき港に着き われは今 安ろう
救い主イエスの手にある 身はいとも安し
 
今日も、救い主イエスにより安らぎのある一日となりますように。お祈りいたします。

2023.12.14(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編97編11節
光は正しき人に
喜びは心のまっすぐな者に蒔かれる。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書25章1~2節
天の国は、十人のおとめがそれぞれ灯を持って、花婿を迎えに出て行くのに似ている。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
昨日は、黙想をお届けすることができませんでしたので、一日遅れですが、「昨日の御言葉の黙想」としてお届けしたいと思います。もしよろしければ、お読みくだされば幸いです。
 
実は、私が働く仙台宮城野教会では、毎週木曜日に「聖書研究祈祷会」が行われますが、いみじくも昨日の聖書箇所がマタイによる福音書25章でした。昨日の新約聖書の言葉として選ばれた部分です。イエスによって語られた「十人のおとめ」のたとえ話の冒頭部分です。
 
花婿を迎えるために、花嫁の従者であるおとめ10人が灯をともす準備をしています。たとえ話は、5人のおとめは灯油を十分に準備していましたが、5名のおとめはその備えがなかったのです。それはいざ花婿を迎える時となったときに、明暗が分かれました。このたとえ話は、私たちがいかに備えすることが大切かということを教えるものとなります。主が再び来られる、つまり再臨の時への私たちの備えというものを、この聖書の言葉は私たちに伝えています。まさに、アドヴェント(待降節)に読むべき御言葉と言えるでしょう。
 
私たちがアドヴェントの日々を過ごすというのはどういうことなのか。アドヴェントは毎年訪れるし、4週間の日々もある。いくらでもマンネリ化できるものなのだと私は思うのです。今を生きるときに、将来への備えとして生きているだろうか。そんなことを思わされます。今の営みは、将来への種まきなのだと。そういう思いで、今この時を誠実に生きることが求められるのだと。アドヴェントとは、やがて私たちのもとに来る救い主イエスを、心からお迎えするための、私たちひとりひとりの心が整われる時であることを思わされます。
 
備えられたところにこそ、光を光として感じ取り、神が与えてくださる喜びをも味わうことができる。そんな思いで、アドヴェントを楽しむ者でありたいと願います。皆さんの主にある祝福をお祈りいたします。
 

13/12/2023

2023.12.13(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編139編4節
私の舌に言葉が上る前に
主よ、あなたは何もかも知っておられる。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一4章5節
主は、闇に隠れた事を明るみに出し、人の心の謀をも明らかにされます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日は、代務教会である仙台北三番丁教会のもろもろの教務があり、ローズンゲン黙想をお届けするのが今の時間帯になってしまいました。この後、夕の祈祷会がありますが、その前に、あらためてローズンゲンに示された御言葉の黙想をお届けしたいと思いました。一日を締めくくる皆さんのひと時のなかで、黙想の一助になればと願います。
 
今日の旧約および新約聖書を貫くテーマは「神は私たちの心の内をすべてご存知である」ということを受け止めました。普通、私たちは自分自身の心が見透かされているというのは、決して嬉しいものではないと思うのではないかと思うのです。誰とて、心のなかにやましいものがあり、それを隠しておきたいと思うようなことがある。子どもですら、何かを一生懸命隠そうとする知恵が芽生えるのです。しかし、たとえ一生懸命隠そうとしても、親にはすぐにばれてしまうなんていうことが、私たちの記憶にいくらでもあると思うのです。
 
神は、私たちの親のような存在であると、聖書は神のかたちについて多々述べていることは、私たちはよく知っていると思います。その親を目の前にしては、私たちのしていることなどすべてお見通しなんだと。今日の聖書の言葉は、そういうことを私たちに伝えているものなのだと、私は感じてしまいます。
 
だからと言って、私たちは自分自身のすべてが神に知られていることに恐怖を抱く必要はあるのだろうか。私たちは、むしろ神が自分自身のすべてを知ってくださるということに、むしろ安心を抱けるような思いを抱きたいと思うのです。もちろん、誰にも隠しておきたいやましいことを、神に知られるというのは恐れのなにものでもないかもしれません。しかし、そういう私の姿を、ただただ成長を願い、成長に必要な言葉を与えながら、ただただ見守り、育てていこうとする親のように、神の思いに秘めた「親心」に、私たちは究極的な安心を得ることができるのだと思うのです。言葉とは聖書の言葉を指し、親心とは聖霊なる神の助けそのものなのだと、私は受け止めたいのです。
 
どうぞ、今日の一日を導いてくださった親である神の心に抱かれながら、今日の残された時間と明日への備えのひとときすべてに、神の支えが豊かにありますように。お祈りいたします。

12/12/2023

2023.12.12(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
創世記2章3節
神は第七の日を祝福し、これを聖別された。その日、神はすべての創造の業を終えて休まれたからである。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
フィリピの信徒への手紙4章7節
あらゆる人知を超えた神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスにあって守るでしょう。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日ローズンゲンによって選ばれた旧約聖書の言葉は、神が天地万物の創造をすべて終えられたときに、何をされたかということについて描かれているものです。創造の第7日目は「祝福と聖別、そして休息」であったことが記されています。
 
そのなかでも、本日注目したいのは「神が私たちを祝福し、ご自分のものとして聖別しておられる」というメッセージであると私は受け止めました。私たちはすべて、神から祝福された存在であるということです。そして特別なものとして取り分けられているということです。これは、神がいかに私たちはもとより、この世界を愛され、大切にしておられるかということを物語る言葉であると言えるでしょう。
 
しかし、どうでしょう。そんな神による祝福とは裏腹に、この世界には祝福とは到底感じられない出来事がどれだけあるかを思わされます。祝福というより呪いがこの世界に満ちあふれるときに、本当にここに祝福があるのだろうか、神は私たちを本当に祝福してくださっているのだろうかと、疑いたくなるような要素がいくらでもあることを思わされます。
 
しかし、神は明らかに祝福を携えて私たちのもとへやって来られ、私たちとともにいてくださる。そんなクリスマスが語るメッセージというものが真実であると、私たちは信じたいのです。私たちの世界に祝福を感じられないのは、神のせいではなく、神から管理を委ねられたこの世界を、私たちが我田引水のごとく利用し、悪用しているからなのです。そのことに私たちは気付かない限り、自分で自分の首を絞めるような呪いを、ずっと引きずり続けることとなります。呪いを神のせいにしてしまうような私たちの責任というものを、じっくりと考え続け、思い直す必要が私たちにはあるのだと、私は感じるのです。
 
神は、私たちの人知をはるかに超えたところで、救い主イエスを遣わすという超ウルトラCを成し遂げられました。そこに平和がある。「地には平和、御心にかなう人々にあれ」と天使たちが歌ったように、そこには平和という究極の祝福があることを心から願いたい。そんなことを思わせる、今日の聖書の言葉に感謝します。
 
皆さんの一日も、神の平和が豊かに宿る時となりますように。お祈りします。

11/12/2023

2023.12.11(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編38編10節
わが主よ
私の望みはすべてあなたの前にあります。
嘆きもあなたから隠されてはいません。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一5章14節
何事でも神の御心に適うことを願うなら、神は聞いてくださる。これこそ私たちが神に抱いている確信です。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
昨日は、アドヴェント(待降節)2回目の日曜日を、私たちは迎えることができました。私は代務教会で礼拝説教の用にあずかりました。たとえ天地が滅びようとも、私の言葉は決して滅びないとイエスは弟子たちに語られました。イエスが言葉をもって、私たちのところへやって来られる。そして、親しく臨んでくださることに期待しながら、メッセージをしました。アドヴェントというのは、そういうことを意識しながら、じっくりと黙想する時だということを、あらためて感じさせられます。
 
さて、今日のふたつの聖書の言葉を貫くテーマは「私の希望」であると、私は受け止めました。私の願いはどこにあるのか。そんなことを想うときに、神はその願いをどのようにとらえてくださるのでしょうか。今日の新約聖書の言葉である、ヨハネの手紙には「神の御心に適うことを願うならば」とあります。つまり、神の思いや願いと私たちの思いや願いが相通じたときに、神はご自分の御心を私たちに豊かに向けてくださり、果たしてくださるのだと。
 
つまり、そのためにも、私たちは神がどのようなことを思い、願われ、私たちに期待しておられるかということを、私たちが聖書の言葉と聖霊の導きによって、誠実かつ謙虚な思いをもって知り続けていく営みというものが求められるのだと受け止めたいのです。
 
ですから、私はあくまで神の御前では素直な者でありたいと願うのです。どんなに神の御心を求めたとしても、思い違い、自分の願望ばかり神の御前に並べ立ててしまう自分自身があるからです。そんな時に、私自身が素直な思いをもって自分自身を見つめることができるならば、神は必ず私を軌道修正してくださるし、そのような神の勧めに、喜んで応じる者として生きていくことができると感じるからです。
 
神の御心を十分にくむことができない。しかし、神の御心を知りたいと心から素直に願うときに、神は必ず応答してくださる。そんなことを希望として、今日の一日も歩んでいきたいと思います。皆さんの一日にも、神が豊かに祝してくださいますように。お祈りいたします。

10/12/2023

2023.12.10(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
申命記3章24節
あなたのような業と力ある行いをなしうる神が、この天と地におられるでしょうか。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一12章6節
働きにはいろいろありますが、すべての人の中に働いてすべてをなさるのは同じ神です。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
私たちは救い主イエスの御降誕を祝うに先立つアドヴェント(待降節)2回目の日曜日を迎えました。今日は世界中のいたるところで、主の日の礼拝が執り行われます。礼拝の一切に、主の御業が豊かにあふれますことを祈りつつ、今日のローズンゲンに聴きたいと思います。
 
今日選ばれたふたつの聖句に共通する言葉は「主の御業」です。いずれも、神である主のお働きは「奇しき業」として、全世界に広がりゆくことが私たちに示されています。奇しき業とは不思議な業のことを言います。私たち人間では想像もつかないような出来事が、神によって示され、それが私たちのあいだに広がりゆくとき、私たちを平和の道へと導かれる。その事実を私たちは受け取ることができるというのです。
 
そういう意味で言えば、クリスマスの出来事というのは、実に「不思議な仕方で起きた神の御業」であると言えるでしょう。神が人間社会への救済をもたらすために、何をなされたかについて、私たちはじっくりと黙想していきたいと思います。
 
今日は短い黙想ですが、主の御業というものを思い巡らしながら、主の日の幸いを私たちの誰もが味わえますように。お祈りいたします。

09/12/2023

2023.12.9(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編30編4節
主よ、あなたは私の魂を陰府から引き上げ
墓穴に下る者の中から生かしてくださいました。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書5章25節
死んだ者が神の子の声を聞き、聞いた者が生きる時が来る。今がその時である。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今朝は少し遅めに起きて、ローズンゲン黙想に取り掛かっています。クリスマスシーズンの、また年の瀬のあわただしい時だからこそ、休めるときにゆっくり休んで、体調を万全にして一日を過ごしてまいりたいと思います。
 
さて、今日の旧約聖書と新約聖書を貫くテーマは「命のよみがえり」であると、私は受け止めました。たとえ死の闇のなかにくだろうとも、私たちを命の道へと引き上げ、導いてくださる方がおられる。この方こそ、私たちの神であり、その神が救い主としてこの世に遣わしてくださったイエスであると、ふたつの聖書の言葉は伝えています。
 
クリスマスとは、暗闇に光が投じられたという中心的なメッセージがあります。昨日から、仙台の街は「光のページェント」が開幕しました。定禅寺通りの街路樹がイルミネーションで輝きます。夜空に、これまでもかというくらいにまばゆく輝く光は、まさに圧巻と言えます。このイメージこそ、枯れ木に命が投じられた、つまり、新たな命が与えられるというクリスマスのメッセージに重なるのだと思うのです。
 
私たちが日々の営みのなかで、さも死んでしまったかのような闇を感じることがあろうとも、そのような闇と隣り合わせ、またその渦中にあったとしても、必ずや、私たちの神が光の道へと私たちをいざなってくださる。そのことを心に備えし、期待しつつ、アドヴェント最初の土曜日のときを過ごし、明日の礼拝へと備えてまいりたいと思います。
 
皆さんの一日に、神による幸いが豊かにありますように。お祈りいたします。

08/12/2023

2023.12.8(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書43章18~19節
先にあったことを思い起こすな。
昔のことを考えるな。
見よ、私は新しいことを行う。
今や、それは起ころうとしている。あなたがたはそれを知らないのか。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書13章31節
天の国は、人が畑に蒔くからし種に似ている。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日の新約聖書のなかで「からし種」が登場します。手でつまんで取ることが難しいくらい微小なからし種です(クロガラシと呼ばれるもので、0.5ミリほどと言われています)が、蒔いて成長すると、優に人の背丈を超えてしまうほどの大きさ(5mくらい)にまでなると言われています。
 
それが、イエスによって語られた「天の国」のダイナミックであると言えます。ダイナミック。ダイナマイトと元を同じくする言葉であり、ごくごく小さなものからも、爆発的な力を生み出すことができるさまを表現していると言えるでしょう。その天の国を、私たちに与え、その中心に立ち、生きて働いてくださるのが、神であるということに他なりません。
 
私たちは自分自身の経験値に基づいて、物事を考え、とらえ、行動します。しかし、それは時に、物事を自分自身で小さく仕立ててしまうことがあるのではないかと、私は思ったりしています。自分自身の経験値というのは、役に立つことがある反面、神がもたらしてくださる可能性というものを排除して、自分自身の限界のなかにとどめて物事を進めてしまうきらいがあるのだと。もちろん、現実的な視点は大切ですが、現実的なことばかりに視点を置くのも考え物なのです。
 
今日の旧約聖書の言葉であるイザヤ書43章の聖句は、昔のこと、つまり自分自身が慣れ親しんできた習慣・慣習・伝統というものに対して、必要以上にしがみつくことから離れなさいと勧め、また先行き見えない将来に対する不安にとらわれるばかり、明日の一歩も踏み出せないような状況からも脱しなさい。成長などできるのかと思えるくらい小さなからし種からも、大木を生み出す力を神は持っているのだから。そういう神が、私たちとともにいてくださるのだから。あなた方はただただ神である主とともに歩みなさい。そんな声が聞こえてきそうな聖書の言葉であると受け止めました。
 
神が開拓してくださる希望に、今日も生きることのできる幸いを感謝しつつ歩むことができますように。お祈りいたします。

07/12/2023

2023.12.7(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
士師記10章10節
イスラエルの人々は主を叫び求めて言った。「私たちはあなたに罪を犯しました。私たちの神を捨てました。」

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書1章76~77節
あなたは
主に先立って行き、その道を備え
主の民に罪の赦しによる救いを
知らせる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日選ばれたふたつの聖書の言葉に共通するのは「」というワードです。罪は、私たちにとっては一般犯罪のようなイメージが先行しますが、聖書の語る罪とは、一般犯罪はその結果生じるものであって、もっと根源的なものに注目します。なぜ犯罪が起こるのか。それは、私たちと神との関係性の問題であると、そのことを聖書は言及しています。
 
イスラエルの民たちが「私たちが神に罪を犯すこと」と「私たちが神を捨てること」を並列して語っているのが、今日の旧約聖書である士師記10章に記されている言葉の意味です。具体的に彼らは「バアルに仕えた」と、自分たちのことを語っています。バアルとは五穀豊穣をもたらす神であり、彼らは父なる神よりも、より自分たちを豊かにしてくれそうな神を選び取ることで、神を捨てたというわけです。
 
私たちにとって神とは何か。自分たちの利益追求のために利用する存在なのか。より良い効果を求めて神を頼るならば、それは実に我田引水的な神との関わりに過ぎないということです。効き目がなかったら簡単に捨ててしまう神に成り下がってしまうのです。それをさも雇用者のように取り扱ったイスラエルの民たちは、実に「思い返した」。これこそ私たちの「悔い改め」ということの意味なのだと、私は受け止めたいのです。
 
そのために、救い主イエスに先立つ道備えをするために、洗礼者ヨハネの存在が与えられました。ヨハネが生まれたときに、そのことを喜んだ父ザカリアは、今日の新約聖書の言葉に示された言葉をもって、神である主を賛美しました。「罪による救いを知らせる」という使命です。まさにヨハネに与えられた生涯の使命とは、罪によって隔絶された神との関係性を修復することにあった、ということです。
 
クリスマスに先立つアドヴェントの期節は、私たちの罪を想う日々であることを、今日のふたつの言葉から受け止めたいと心から願います。どうぞ今日の一日もすてきな時でありますように。お祈りいたします。

06/12/2023

2023.12.6(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書60章20節
あなたの嘆きの日々は終わる。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書1章14節
言は肉となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日の旧約聖書の言葉である「あなたの嘆きの日々は終わる」という、イザヤ書60章20節の言葉ですが、これは20節の最後に書かれている一文であって、20節全体を見ると、次のように記されています。
 
あなたの太陽は再び沈むことがなく
あなたの月は欠けることがない。
主があなたにとって、とこしえの光となり
あなたの嘆きの日々は終わる。

どうして、私たちは嘆きに終わりを告げることができるのか。それは、光を放つ太陽や月がその光輝というものを終わらせることはないのだ。たとえ沈んでも欠けたとしても、神である主が、あなたを輝かせ続けるのだから、あなたはもう、これ以上嘆き悲しむことはないのだと、力強い保証の言葉として、私たちを励ましてくださるということなのです。
 
そして、この保証の言葉は、神が放たれる栄光の具体的な姿として、父なる神の独り子であるイエスに受肉された、つまり、生きた人間として私たちのもとに現れてくださったのだというのが、今日の新約聖書であるヨハネによる福音書1章14節の指し示すメッセージであると言えます。クリスマスにしばしば読まれ、語られる聖書の言葉ですが、クリスマスとは、神の独り子にして神であるイエスが、私たちと同じ人間のかたちをとられることで「まことに人にしてまことの神」となられる序章が始まったことを記念する祭りであると言えます。
 
クリスマスという祭りを、誰が祝うようになったのか。少なくとも後代のクリスチャンたちが、自分たちのキリストを想うひとつのかたちとして、つくり上げられた祝祭であることは間違いありません。別に聖書で祝いなさいという命令があったから祝うという種類のものではないことは明らかです。そういう意味では、クリスマスという祭りそのものが、非聖書的と考えておられる方々もおられます。私は、そういう人たちもいて良いのではないかと思ったりしています。
 
しかし、たとえそうであったとしても、クリスマスという祭りを通して、私たちは今日の聖書の言葉のように、神の言葉から救いという言葉を、嘆きからの解放という神の御業を、心から黙想しつつ、救い主が与えられたことの幸いと喜びを、味わうことができるのだと心から願いたいのです。だから、今年もやって来るクリスマスを心から祝いたいし、そのための備えのときを、じっくりと持っていきたいと心から願いたいと思わされます。
 
今日の一日もまた、そのような神が与えてくださる幸いに包まれながら生きることができますように。お祈りいたします。

05/12/2023

2023.12.5(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編65編4節
数々の過ちが私を責めたてます。
私たちの背きを、あなたが覆ってくださいます。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ガラテヤの信徒への手紙4章4~5節
時が満ちると、神は、その御子を女から生まれた者、律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の下にある者を贖い出し、私たちに子としての身分を授けるためでした。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
本日の旧約聖書で、この詩を歌ったダビデ王が「数々の過ちが私を責めたてます」という言葉に、私は注目したいと思いました。ダビデ王のように、神から事あるごとに祝福を受け、イスラエルの王としての地位というものを保ちながらも、彼自身の心中には、自分が犯した数々の過ちによって、自己に対する良心の呵責というものが常にあったことを想わせる一節です。
 
ここで言う過ちとは何でしょうか。それは「神と共に歩むことができない状態」ゆえに、神が期待されていることに自分自身を従わせることができないことを指すと、私は受け止めています。神が期待されていることとは、かつて神がモーセを通して全イスラエルに与えられた律法の数々の言葉に示された、神の精神とも言えるものでしょう。その中心にあるものは、あくまで神が人間に対してとことん示される「愛」に対する、私たちの応答です。もちろん、その応答の中心にあるものは、神が示された愛に生きることです。
 
どんなに律法の言葉を忠実に守ったとしても、その動機が問われます。そこに愛はあるのか。神の愛が脈々と流れているのか。律法を守ったつもりで自己満足に浸ってしまうがゆえに、驕り高ぶってはいないだろうか。そんな動機が問われるときに、ダビデ王は自分自身の至らなさというものを実に痛感しながら、今日の聖書の言葉にあるような詩に思いを込めて歌ったのだろうと思うのです。
 
私たちは神からいただき、受けたものをもって生きるにしても、そこには限界があることを知りたいのです。もちろん、私たちになしうることは、心を込めてそうしていきたいのです。神の愛をもって生きたい。しかし、そうできない自分自身を自覚するときこそ、神が究極の救い主として私たちに与えられた主イエスに、心を寄せていくことができるのではないかと思うのです。まさに、アドヴェントの時期に、私たちはそういうところに、自分自身の思いや心を持っていきたいと願わされます。
 
ままならない私たちの律法遵守の本質というものを、イエスは私たちに対する愛をもって完全に実現された。だからこそ、私たちは神の子という身分が神によって授けられたと、使徒パウロはガラテヤにあるクリスチャンたちに手紙を書き綴りました。神から私たちに与えられた使命を心を込めて取り組みつつも、そこにはイエス・キリストが示された愛に生きることで、自分自身の至らなさのためにイエスがおられることを感じ取れるような一日を、過ごしてまいりたいと心から願わされました。
 
皆さんの一日にも、そのような主イエスの愛が豊かにあふれますように。お祈りいたします。

04/12/2023

2023.12.4(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書41章10節
恐れるな、私があなたと共にいる。
たじろぐな、私があなたの神である。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書21章15節
神殿の境内で子どもたちが叫んだ。「ダビデの子にホサナ」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
昨日は、待降節(アドヴェント)の最初の日曜日を迎えることができました。皆さんの教会でも、アドヴェントクランツに1本目のろうそくが灯されたと思います。それを見るだけで、何となく待ち遠しい気持ちが呼び起こされたのではないでしょうか。かく言う私も点灯したときに「ああ、クリスマスが近づいてきたなあ」という実感がわいてきました。この期節、なんとなく世の中があわただしいなかにあっても、静かに、また心弾ませながら、この時を過ごしてまいりたいと思う一日でした。ぐっすり休んで、少し遅めに起きて朝を迎えることができました。
 
今日の聖書の言葉で、私はあらためて「ホサナ」という言葉に注目したいと思いました。イエスが十字架につけられる数日前に、イスラエルの都エルサレムの城門に入ったときに、民がこぞって「ホサナ」と叫びました。大人から、その大人たちを見ていた子どもたちまで「ホサナ、ホサナ!」と叫んだのです。
 
ホサナとは「救ってください」という意味です。イエスを私たちの王として君臨してくださる、そんな期待と願いを込めて、人々はこの言葉を歓声とともに口にしたことでしょう。もし、私たちを平和のうちに治めてくださるならば、私たちはこの暗闇にも似た世界から、どれだけ解放され、そして幸せに生きることができるだろうか。民たちはそう思ったことでしょう。それはまるで、ろうそくのともし火が少しずつ灯されることによって、明るさがますます私の心に、そして世の中に広がっていく。そんな期待であったに違いないと私は思うのです。
 
闇の中にいることは、私たちに恐れを起こさせます。その恐れのなかで、たじろいでしまうのです。歩む方向すら知ることができないからです。その場で地団駄を踏むしかないような状況で、しかし、神は私たちとともにいると、イエスが私たちのもとに現れるずっと昔から、預言者たちを通して語り継がれてきたのでした。今日の旧約聖書の言葉であるイザヤ書でも、神は私たちとともにいるという約束が、希望の言葉として語り継がれてきたのでした。
 
私たちを救ってください!というホサナという嘆願の言葉が、今、私たちのもとにあらためて輝き始めた。そんな思いを、昨日のアドヴェント最初の日曜日で経験したことと掛け合わせながら、今週のウィークデイを過ごしていきたい。そんなことを願わされたのでした。
 
皆さんの一週間にも、1本のろうそくに光るともし火がともにありますように。お祈りいたします。

03/12/2023

2023.12.3(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ゼカリヤ書1章17節
主は再びシオンを慰める。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書2章25節
シメオンはイスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日から、教会暦の新しい一年が始まりました。伝統的に教会は、救い主イエスの歴史を中心にして、暦がつくられてきました。ですので、主の御降誕を待ち望むアドヴェント(待降節)をもって、新しい暦が始まります。新年を迎えたような気持ちで、その一日目に与えられた神の言葉に、耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日の聖書の言葉は、まさにそのような初日を飾るにふさわしいものであると、私は受け止めました。主なる神は、再び神の民であるシオンを慰めると。そうです。神は一度ならず私たちの心に慰めを与えてくださる。それが救い主イエスが私たちのもとに来られるという、神の確かな約束に他なりません。それは、神が決して人間をお見捨てにならず、ご自分の民、つまり神の民としてすべての人をお集めになられるべく、生きて働いてくださっていることを意味します。
 
しかし、それは「慰める」ということを目的としているということに注目したいのです。慰めは、悲しみや苦しみを抱えるときに、私たちの心に最も有効な手立てとして与えられるものであると、私は理解しています。それによって、私たちは元気や勇気を得ることができるのだと思います。ただ、その元気や勇気というものは、他者を虐げるためにあるのではなく、あくまで神に慰められたという体験をもって、その慰めというものを、愛する者と共有することに、目標とするところがあるのだと、私は思うのです。
 
神の名によって、現在世界の各地で戦いが繰り広げられていることを考えるときに、私たちにとって神の慰めとはいったい何なのかということを、今年のアドヴェントにおける4週間の歩みというものを、黙想しながら踏みしめてまいりたいと思います。そのためにも、聖霊なる神様の助けというものが、老人シメオンとともにあり、救い主に出会うという慰めが彼に与えられたように、私たちもまた、聖霊の助けを十分にいただくことができますように。祈りつつ、歩んでまいりたいと思います。
 
この主の日が、そして新しい一週間、さらにはアドヴェントの日々の、神なる主の祝福をお祈りいたします。

02/12/2023

2023.12.2(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編31編10節
主よ、憐れんでください。
私は苦しんでいます。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書8章25~26節
弟子たちは近寄って起こし、「主よ、助けてください。このままでは死んでしまいます」と言った。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
いよいよ週の最終日を私たちは迎えました。この一週間、私たちはどのような日々の出来事に出会い、そして何を思い、言葉をつむぎ、そして行動したでしょうか。そんなことを振り返りながら、今日の聖書の言葉に心を寄せてみたいと思います。
 
神に自分の苦しみを打ち明け、憐れみがあることを乞い求めるダビデ王、そして、海に放り出されるのではないかとおびえ、イエスに助けを求める弟子たち。これらに共通するのは、人間は誰でも「恐怖」を抱えながら生きている存在であるということです。たとえ王だったとしても、イエスにもっとも近いところにいた者たちでさえも、いや、だからこそ自分のうちにある恐れが際立つということを、私たちはこれらの聖書の言葉から、メッセージとして聴きとることができるのかもしれません。
 
恐れるのは悪いことなのでしょうか。それは、決して悪いことではないと思います。それは私たちの世界から締め出し、完全にシャットアウトすることができませんから、私たちはことあるごとに恐怖の思いを抱きます。ただ、こうも言えます。恐れるのは悪いことではないけれど、私たちが恐れに囚われ続けるとすれば、それは神の望まれることでは決してありません。必ず神は、私たちを恐怖の渦から守ってくださいます。渦巻く恐怖の海に放り出されることのないようにイエスが𠮟りつけ、騒ぎ建つ波を鎮めてくださる。これが、今日語られる聖書のメッセージでもあるのだと。
 
この一週間を振り返るなかで、もし恐怖を感じることがあったとすれば、それは孤独のなかで起き続けることではない。主よ、憐れんでください、助けてくださいという私たちの声に耳を傾けてくださる神が、私たちがこれ以上車無くても良いように働きかけてくださる。今日の聖書の言葉から、そのことをメッセージとして受け取りたいと思いました。
 
明日からは救い主のご降誕を祝うアドヴェントの期節がやってきます。その備えの一日が神様によって祝されますように。お祈りいたします。

01/12/2023

2023.12.1(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書9章6節
見よ、私は彼らを精錬し、試す。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マルコによる福音書13章13節
最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
10月27日よりお休みをいただいていた「ローズンゲン黙想」を再開いたします。楽しみにしてくださっていた皆さまには、随分お待たせしてしまいました。申し訳ありませんでした。問い合わせの電話やメールもいただきました。この黙想を愛してくださっている方々がたくさんおられることを、改めて実感しました。また本日より、黙想を継続してまいりたいと思いますので、どうぞよろしくお願いします。
 
さて、今日の旧約聖書に「精錬」という言葉が登場します。精錬とは、金属を溶かすことで金属のなかに含まれている不純物を取り除くことによって、純粋な金属を取り出す手法のことを言います。その目的は「純粋になる」ことです。
 
神は、私たちを精錬すると語っておられます。つまり、私たちが純粋であるべく、精錬されるというのです。これは一体どういうことなのでしょうか。私たちが純粋になるとは、どのような状態のことを指すのでしょうか。
 
私はこれを「素直さ」という言葉に置き換えることができるのではないかと受け止めました。つまり、純粋とは混じりけのない状態のことを指しますから、私たちはややもすると清廉潔白・品行方正で、完全無欠のような状態のことを指すのではないかと思ってしまうかもしれません。
 
しかしどうでしょう。私たちはどんなに努力しても、100%完璧なさまになるなどということは、絶対にあり得ません。ましてや、自分自身の努力や鍛錬でそのようになることは決してないのです。だからこそ、欠けの多い自分自身の現実が突き付けられて、もがいたり悩んだりするのだと思うのです。
 
その状態こそ、神が私たちを精錬されることの意味だと思うのです。神と向き合い、神の言葉をいただいて黙想する時に、私たちは神によって自分自身の不純物が浮き出てくるのを感じることがあるでしょう。しかし、私たちが希望を抱けるのは、私たちのうちにある不純物を素直に向き合うことができる、ということです。やがて、神がその不純物を精錬によって取り除いてくださる時が来ることを、私たちは望むことができるからこそ、自分自身のありようというものに、素直に向き合うことができるのかもしれません。
 
今日の新約聖書は、最後まで忍耐することの幸いについて語られています。イエスによる言葉ですが、忍耐というものは、否が応でも、目をそむけたくなるような自分自身の現実に付き合わなければならないことを意味します。そんな時ほど苦しいことはない。しかし、神は必ず私を精錬してくださる。そのことを希望に置きつつ、今日も希望ある忍耐の時を過ごしてまいりたい。そのように思わされました。
 
来たる日曜からは、私たちは待望の時期を過ごすことになります。必ず私たちを精錬されるときが来る。そのために救い主イエスが来られるのだと。そんな思いをもって、備えの一日を過ごしてまいりたいと思います。皆さんの一日に、主なる神の祝福をお祈りいたします。