ゼカリヤ書1章17節
主は再びシオンを慰める。
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書2章25節
シメオンはイスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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皆さん、おはようございます。
今日から、教会暦の新しい一年が始まりました。伝統的に教会は、救い主イエスの歴史を中心にして、暦がつくられてきました。ですので、主の御降誕を待ち望むアドヴェント(待降節)をもって、新しい暦が始まります。新年を迎えたような気持ちで、その一日目に与えられた神の言葉に、耳と心を傾けてまいりたいと思います。
今日の聖書の言葉は、まさにそのような初日を飾るにふさわしいものであると、私は受け止めました。主なる神は、再び神の民であるシオンを慰めると。そうです。神は一度ならず私たちの心に慰めを与えてくださる。それが救い主イエスが私たちのもとに来られるという、神の確かな約束に他なりません。それは、神が決して人間をお見捨てにならず、ご自分の民、つまり神の民としてすべての人をお集めになられるべく、生きて働いてくださっていることを意味します。
しかし、それは「慰める」ということを目的としているということに注目したいのです。慰めは、悲しみや苦しみを抱えるときに、私たちの心に最も有効な手立てとして与えられるものであると、私は理解しています。それによって、私たちは元気や勇気を得ることができるのだと思います。ただ、その元気や勇気というものは、他者を虐げるためにあるのではなく、あくまで神に慰められたという体験をもって、その慰めというものを、愛する者と共有することに、目標とするところがあるのだと、私は思うのです。
神の名によって、現在世界の各地で戦いが繰り広げられていることを考えるときに、私たちにとって神の慰めとはいったい何なのかということを、今年のアドヴェントにおける4週間の歩みというものを、黙想しながら踏みしめてまいりたいと思います。そのためにも、聖霊なる神様の助けというものが、老人シメオンとともにあり、救い主に出会うという慰めが彼に与えられたように、私たちもまた、聖霊の助けを十分にいただくことができますように。祈りつつ、歩んでまいりたいと思います。
この主の日が、そして新しい一週間、さらにはアドヴェントの日々の、神なる主の祝福をお祈りいたします。
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