05/12/2023

2023.12.5(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編65編4節
数々の過ちが私を責めたてます。
私たちの背きを、あなたが覆ってくださいます。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ガラテヤの信徒への手紙4章4~5節
時が満ちると、神は、その御子を女から生まれた者、律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の下にある者を贖い出し、私たちに子としての身分を授けるためでした。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
本日の旧約聖書で、この詩を歌ったダビデ王が「数々の過ちが私を責めたてます」という言葉に、私は注目したいと思いました。ダビデ王のように、神から事あるごとに祝福を受け、イスラエルの王としての地位というものを保ちながらも、彼自身の心中には、自分が犯した数々の過ちによって、自己に対する良心の呵責というものが常にあったことを想わせる一節です。
 
ここで言う過ちとは何でしょうか。それは「神と共に歩むことができない状態」ゆえに、神が期待されていることに自分自身を従わせることができないことを指すと、私は受け止めています。神が期待されていることとは、かつて神がモーセを通して全イスラエルに与えられた律法の数々の言葉に示された、神の精神とも言えるものでしょう。その中心にあるものは、あくまで神が人間に対してとことん示される「愛」に対する、私たちの応答です。もちろん、その応答の中心にあるものは、神が示された愛に生きることです。
 
どんなに律法の言葉を忠実に守ったとしても、その動機が問われます。そこに愛はあるのか。神の愛が脈々と流れているのか。律法を守ったつもりで自己満足に浸ってしまうがゆえに、驕り高ぶってはいないだろうか。そんな動機が問われるときに、ダビデ王は自分自身の至らなさというものを実に痛感しながら、今日の聖書の言葉にあるような詩に思いを込めて歌ったのだろうと思うのです。
 
私たちは神からいただき、受けたものをもって生きるにしても、そこには限界があることを知りたいのです。もちろん、私たちになしうることは、心を込めてそうしていきたいのです。神の愛をもって生きたい。しかし、そうできない自分自身を自覚するときこそ、神が究極の救い主として私たちに与えられた主イエスに、心を寄せていくことができるのではないかと思うのです。まさに、アドヴェントの時期に、私たちはそういうところに、自分自身の思いや心を持っていきたいと願わされます。
 
ままならない私たちの律法遵守の本質というものを、イエスは私たちに対する愛をもって完全に実現された。だからこそ、私たちは神の子という身分が神によって授けられたと、使徒パウロはガラテヤにあるクリスチャンたちに手紙を書き綴りました。神から私たちに与えられた使命を心を込めて取り組みつつも、そこにはイエス・キリストが示された愛に生きることで、自分自身の至らなさのためにイエスがおられることを感じ取れるような一日を、過ごしてまいりたいと心から願わされました。
 
皆さんの一日にも、そのような主イエスの愛が豊かにあふれますように。お祈りいたします。

0 件のコメント:

コメントを投稿