創世記39章9節
一体どうしてそのように大それた悪事を働き、神に罪を犯すことができましょう。
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テサロニケの信徒への手紙一4章7節
神は私たちを汚れた生き方へではなく、聖なる生き方へと招かれました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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皆さん、おはようございます。
今日の旧約聖書ですが、ローズンゲン(ドイツ語原版)には、但し書きが記されています。「自分を誘惑したポティファルの妻へのヨセフの言葉」。イスラエル(ヤコブ)の息子であるヨセフがエジプトへわたり、官僚であるポティファルに引き取られます。ヨセフは利発の良さも手伝って、ポテイファルに重用されました。
そんなときに、ポティファルの妻にも気に入られ、ヨセフは彼女の性のはけ口として誘惑を受けることになります。主従関係を用いて、彼女はヨセフを自分の言いなりにさせようとしました。まさに「ゆがんだ支配」がここにありました。
しかし、そのような支配関係は、自分自身が求める支配・被支配関係ではない。ヨセフは、自分を生かしてくださるヤーウェの神こそ、自分の従うべき方なのだということを、ポティファルの妻に明らかにしました。それが、本日の旧約聖書の言葉です。
ヨセフは、神が望んでおられる「夫婦のかたち」を破壊するようなことは、絶対にできない悪事であると認識していました。だからこそ、どうして神に罪をおかすことができるだろうと、告白したのでした。あくまで、神が何を望んでおられるかということを、ヨセフは自分の生き方としようとした結果だったのです。
結果として、ヨセフに自分自身のプライドをずたずたにされたポティファルの妻は、ヨセフを窮地に陥れました。嘘の告発を自分の夫ポティファルにし、ヨセフは主人の怒りを買い投獄されます。しかし、それはいっ時のことでした。神はヨセフの誠実さを祝福されました。ポティファル夫妻を報復することなく、ヨセフはエジプト王の厚い信頼を得た人生を送ることになるのです。
さて、キリスト教は、このヨセフの抱いた精神を継承し続け、性倫理を語るうえでのひとつのモティーフにして、今日にいたっています。しかし、私はいつもこのような性に関する倫理について考えるときに、このヨセフの物語を、どのようにとらえることができるだろうかということを大切にしたいと思っているのです。
仮に「ヨセフのようにあらゆる性の誘惑を避けなければいけません」と捉えて、まるで掟のようにこの言葉を受け入れようとするならば、私はヨセフの精神を受け継いでいるとは思えないのです。そうではなく、私がヨセフに学ぶべきなのは、ヨセフが神との深い関係性のなかで、何が一番自分自身にとってふさわしい生き方ができるのだろうかということを、真剣に問い続けた。そこにこそ、倫理がもたらす肝というものがあるのだと、私は受け取りたいのです。
つまり「なぜ」を問うことの大切さがここにあります。機械的に言葉だけを聞き続けても、心がともなっていなければ、そこに意味を見い出すことはできないからです。人間ですから、倫理的に思い違いや選択のミスをすることだっていくらでもあると思うのです。ただ、そういう出来事を繰り返していくなかで、常に「なぜ」を問うこと、神との関係のなかで、何が本当に神の喜びに応じた生き方を営むことができるのだろうかと問いながら、日々を過ごすことこそ、今日の新約聖書で言われている「聖なる生き方」へと導かれていくのだと思いたいのです。聖なる生き方とは、聖なる御方である神の「聖」というものを、自分自身がいただくことによって、そうさせられていくことを意味するのだと思います。
今年を神とのかかわりのなかで振り返りつつ、自分自身の倫理を問うことのできるような一日でありたいと願います。皆さんの一日も祝されますように。お祈りいたします。
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