ゼカリヤ書8章16節
互いに真実を語り
あなたがたの門で真実と平和の裁きを行え。
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙14章19節
平和に役立つことや、互いを築き上げるのに役立つことを追い求めようではありませんか。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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皆さん、こんばんは。
今日のローズンゲン黙想は、夕方の配信となってしまいました。朝は前日の疲れが少し残っていましたので、長めに休んで一日を開始しました。しなければならないことがいくつかありましたので、この時間での配信となりました。申し訳ありません。
そして、私事ではありますが、今日誕生日を迎えました。47歳を迎えました。朝からSNSや教会、そして家族からもお祝いの言葉をいただいて、新しい一年を迎える者として、気持ち新たに、しかし気を引き締めながら与えられる日々を過ごしてまいりたいと思いました。
そんな気持ちをもって、今日の聖書の言葉に聴きたいと思いました。今日の旧新約を貫く聖書の言葉におけるテーマは「平和」であると私は受け止めました。神が与えられる平和によって、私はその平和を用いつつ、平和をつくり出す者としてこの世界で生きるのだと、決意を求められているのだと感じます。
そこで、今日の聖書の言葉から、平和をつくり出す者として、是非肝に銘じたいことをいくつか取り上げたいと思いました。
まず一点目。平和とは相手が平和を味わってこそ、初めて成り立つ言葉であるということです。自分だけが平和だと思っていても、相手が平和でなければ、それは偽善的な平和になってしまうのだと。今日の新約聖書であるローマの信徒への手紙に書かれていることは「互いに築き上げるのに」という言葉があるのは、とても興味深いことだと思います。
平和とは、平和を願う相手がいて、その相手と建設的に働くものなのだということを思わされます。互いに平和を感じられるような言葉や行いのやり取りができれば、そこにはおのずと良き協力が神によって生み出されていくことを、是非期待したいのです。だからこそ、私たちの間に立たれる神が、私たちの心を導かれることをただ祈り、その御心に聴きながら、行動する者でありたいと願わされます。
二点目に、平和とは神の真実の上に成り立つものであって、神の真実無しに平和はあり得ないということです。神の真実とはなんだろうか。そんなことを考えるときに、やはり神がご自身の大いなる犠牲をもって、御子イエスを救い主として差し出してくださったアガペーによる愛に他ならないのだと私は思うのです。平和とは、愛に基づいた犠牲のうえに初めて成り立つことであって、その犠牲に、どれだけ自分自身が立つことができるのだろうか。そんなことを日々考えながら、アガペーに基づいた平和を願う者でありたいと思わされます。
相手に対する深い関心、そして神の愛が注がれていくことへの具体的なイメージに基づいて、それを共有できることへの実感というものを大切にしたい。そんな一年間を過ごしてまいりたいと思いました。
今日も日暮れて、夜がやってきます。どうぞ皆さんの夜のひと時に、神の愛に基づいた平和がともに、そして豊かにありますように。お祈りいたします。
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