29/09/2023

2023.9.29(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ゼカリヤ書8章23節
あなたがたと一緒に行かせてほしい。神はあなたがたと共におられる、と我々は聞いたから。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙10章14節
宣べ伝える人がいなくて、どうして聞くことができるでしょう。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日は東京で朝を迎えました。ある神学校で単発の授業を担当するためです。カルト宗教についての講義です。毎年1回の講義ですが、この神学校でも担当が3回目となりました。少しでも学生の方々に伝わるように、心を込めて講義したいと思います。
 
さて、今日の聖書の言葉を通して、神が与えてくださったイエス・キリストという福音を、自分が与えられている限りの環境でも、それを伝え分かち合うことの大切さというものを、あらためて知らされました。もちろん、伝え方、表現方法、場所や時間など、それは人ひとりひとりによって違うことは確かにあるでしょう。しかし、どんな形であれ方法であれ、福音を伝えることのおいては、一点の曇りもなく誰かに伝える、福音によって生かされている私の姿というものを(たとえボロボロであったとしても)示すことは大切なのだと思わされました。「ボロは着てても心は錦」と言われているように。
 
今日の第三のテキスト(原文)は、ドイツの神学者である、フルベルト・シュテフェンスキーによる言葉ですが、「宣教とは?」に続いて、こう告げています。
 
宣教とは、何を愛し、何を信じているかを見せることを意味します。
 
宣教とは、言葉をもって何かを伝えていくことに重きを置いているような印象が私にはあります。もちろん、言葉で何かを伝えるということは、私たちの生活にとって欠かせないものです。しかし、言葉がなくても「見せる(示す・証明する)」ということは、言葉に劣らず勝るものさえある。それが私たちひとりひとりの神に向き合い人に向き合う愛の生き方なのだと、私はそのように受け止めました。
 
たとえ愛せない状況があったとしても、それでも神の愛が私に向き、愛せない対象にも向いているという事実を信じること。この信じていることが、宣教の意味するところであれば、真摯に信じて祈り続けていくこともまた、宣教なのだと思えてならないのです。
 
そのような生き方へと、今日も神が導いてくださいますように。皆さんの平安のためにもお祈りいたします。

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