詩編90編8節
あなたは私たちの過ちを御前に
隠れた行いを御顔の光にあらわにされる。
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書6章12節
私たちの負い目をお赦しください
私たちも自分に負い目のある人を
赦しましたように。
私たちに罪をおかした者をゆるしましたから私たちのおかした罪をおゆるしください。
私は長年、この主の祈りの言葉に違和感を否定感を抱き続けてきました。私がどうして、自分に対して罪をおかした人を許すことができるだろうか。でなければ、私も神に自分の罪というものを許してもらうことはできないのだろうか。
人を許せないということで、自分自身が神から見離されたような感覚に陥ってしまうのです。礼拝やその他の場所で、主の祈りが祈られるたびに、心が苦しくなってついには祈れなくなってしまったのです。神学生のときでした。まだエホバの証人であることに別れを告げて、教会で信仰生活を送ることになって数年しか経っていない頃でした。
私は、同じ教会の方にそのことを打ち明けました。そうしたら、その方から出た返答というものは、実にシンプルなものだったのです。「だから祈るんでしょ?」と。
祈れないことを祈る。できないことを祈り続ける。祈ることを通して神の助けを願い求める。そして、この祈りを教えてくださったイエスが、私とともにいてくださることを信じて祈る。
許すことのできない自分自身が、この祈りによって再び気づかされるときに、できない自分を責めたり、それゆえに自己否定感にさいなまれるのではなく、だからこそ、イエスの助けによって、罪ゆるされたものとして、いつかは神の助けによってゆるすという出来事を自分のものとすることができますようにと、祈ることができるのだと。そのために神は私のために働いてくださることを信じるだけで、見方というものが随分違ってくるのではないだろうか。そんなことを思いつつ、主の祈りを祈れるようになったことを思い出しました。
祈るということで、自分自身の偽らざる姿に気づくことができるのであれば、それがたとえネガティブなことであったとしても、そこに神が生きて働いてくださるのだと。そんな思いを胸にして、今日という一日を歩みたいと願わされました。
猛暑が続くなか、皆さんの健康が守られますように。主の守りと祝福を、心からお祈りいたします。
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