12/07/2023

2023.7.12(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ヨエル書2章17節
主よ、あなたの民を憐れんでください。
あなたの相続地をそしりの的にしないでください。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テトスへの手紙2章14節
キリストが私たちのためにご自身を献げられたのは、私たちをあらゆる不法から贖い出し、
良い行いに熱心な民を、ご自分のものとして清めるためだったのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
昨日は、黙想をお届けすることができず、申し訳ありませんでした。去る月曜日から、私の所属する日本基督教団東北教区の「教師研修会」という行事が1泊2日の日程でおこなわれました。私は準備委員の立場で関わりましたが、もちろん一参加者の立場としても、学びと交わりの時をいただき、とても充実した2日間を過ごすことができました。講師は、八戸小中野教会牧師の小林よう子先生でした。歴史というものについて考える、とても良い示唆をいただきました。
 
さて、今日の聖書の言葉を通して想わされたこと。神は私たちが必要以上にみじめにならないように、常に働いてくださっているということです。私たちにとってみじめになるとは、単に自分のプライドが汚されることではなく、あくまで神を自分の神とし、神とともに歩んでいるがゆえに、周りからそしりを受けることによって生じるみじめさのことを指しています。
 
自分のプライドとは何でしょうか。自分が自分として周囲から認められるということを根っことしたところから起きるものであると、私は考えています。私たちは誰でも承認欲求というものを持っています。認められることで自分の立ち位置というものを確認して、そしてそれが自尊心、プライドへとつながっていくのだと、私は自分のことを振り返ってもそう思わされます。
 
そんなことを思うときに、私が神を信じるということを自分自身の生き方とするときに、また、そうしていることを周りへ伝えようとするときに、必ずしもそれが周りに理解してもらえないということがあります。宗教なんてやっていて何が楽しいの?神を信じるなど馬鹿げたことだとか、宗教があるから統一協会のような害悪を生むのだとか、いろいろなことを言われることがあります。
 
そういう時に、プライドが傷つけられることを恐れるならば、自分自身が信仰者であることを隠したり、弱めたりしながら、何とか自分自身の立ち位置を認めてもらおうと工夫してしまうかもしれません。しかし、それはプライドという段階に自分自身をとどまらせようとする際に起きてくるものであって、実にみじめな自分自身に取り囲まれて、さも悲劇の主人公のようになってしまうのかもしれません。
 
しかし、神はそのようなみじめな私たちを受け入れてくださる。神とともに生きるということへの幸いを、私たちにはっきりと見せてくださる。そして、働いてくださるというのです。イエスを救い主として、私たちに与えてくださった神が、私たちをみじめという枠のなかに閉じこもることのないように、助けてくださるというのです。
 
こうして、私自身が、神とともに歩むことの幸いというものを、今日も気づかせてくださる。そのことを希望として、今日の一日を歩む者でありたいと願わされました。皆さんの一日も、そのような神の助けが豊かにありますことを、心からお祈りいたします。

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