11/06/2023

2023.6.11(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書31章6節
立ち帰れ、あなたがたが甚だしく背いてきた方に。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テモテへの手紙一1章15節
「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、すべて受け入れるに値します。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
新しい週がやってまいりました。その初めの日であるこの日曜日が、一週間の始まりとしてのふさわしさと新鮮さを、神が私たちに与えてくださることを心から期待しつつ、今日の一日を歩んでまいりたいと願います。皆さんの一日に、世界の各地で行われる礼拝や集会の一切に、主なる神の守りと祝福がありますようにと祈ります。
 
さて、今日の聖書の言葉を通して想わされたのは「立ち帰って生きる」ということです。方向転換をすることの大切さ、もう引き返せないと思ったとしても、まだまだ帰る道というものが神によって十分に備えられているのだということを、神は「立ち帰れ!」というひと言をもって私たちに呼びかけておられる。そのように私は今日の旧約聖書の言葉を受け止めました。
 
私たちがよく用いる「悔い改め」と言うことについて想います。私たちは自分の生き方を振り返り、悔いることはしばしばあったとしても、悔いる事だけで終わっていないだろうかと思うことがあります。つまり、自分はなんてダメな奴なんだと自分を責めることがあったとしても、責めるだけで終わり、そこで終わってしまうということがないだろうか。そんなことを思うのです。
 
しかし、悔い改めとは、悔いることもさることながら、改めることも大切である。つまり、そこに再生の道、赦しの道、やり直しの道というものがともなっていることを、私はどれだけ真剣に受け止めているだろうか。自分自身の生き方としているだろうか。もしくは、改めて生きようとしている人を、祈りと実際の助けをもって支えようとしているだろうか。そんなことを思わされました。
 
もし改めて生きようとしても、そのように神が促し、導いてくださっているのにもかかわらず、私たち人間が自分自身の「許せない」思いで、その道を断とうとしていないだろうか。もしそうであるとするならば、悔い改めることすら躊躇してしまう、悔いる事だけ終わってしまい、その後の希望に目を向けることもできないような環境をつくりあげてしまっているのだと、私は自分自身のさまを振り返り、自戒の心をもって考えさせられました。
 
そのためにイエスは、自分自身の命をもって私たちにその道を与えてくださったではないか。そういう真実に、私は悔い改めることの喜びというものを見い出したい。そう思ったのです。自虐的に生きるのではなく、希望をもって、その希望を他虐的な思いをもって潰すことのないように、今日も生きてまいりたいと思います。
 
どうぞ皆さんの一日にも、神の豊かな導きと祝福がありますように。お祈りいたします。

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